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哲学のマンガ化―フィロ・グラフィックスの挑戦

シンクタンクやコンサルタント、あるいはビジネス誌やビジネス書の編集の世界で最近、インフォ・グラフィクスが注目されている。

数値や概念をいかにわかりやすく、直観的に伝えるか。インフォ・グラフィックスはその工夫と考えればよいだろう。言葉は新しいが、考え方自体は昔からある。仕事柄、チャートやグラフの表現には相応の苦労をしてきたので、インフォ・グラフィックスの重要性は身に染みてわかっているつもりだ。

個人的には、「マンガ」も一種のインフォ・グラフィクスではないかと思っている。

マンガと絵画・イラストはどこが違うか。絵画・イラストでは、たとえば美人を表現するためには、美人の絵を描くしかない。他に頼ってはいけない。しかしマンガはもともと、ストーリーの「絵解き」である。マンガにおける絵は記号であり、約束事なのである。絵だけで美人を表現する必要はない。「これは美人の絵ですよ」と提示して、読者が納得してくれればそれでよいのである。そんな意味のことを手塚治虫が言っていた。手塚は言うまでもなく絵が上手かったが、マンガにおいて絵の上手さは二の次だとさえ言っていたように思う。

手塚説の是非はさておき、このように考えると、自分は小さいころからインフォ・グラフィクスに縁があったのだなと気づく。マンガが好きで、子供のころは漫画家になるのが夢だった。絵を描くのが好きだったというより、ギャクやストーリー、キャラクターなどのアイデアを絵にするのが好きだった。手塚説の分類によれば、私は画家・イラストレーター志向ではなくマンガ家志向の人間であったということになるのである。

最近、「フィロ・グラフィクス」という面白い本が出た。哲学(フィロソフィー)をグラフィック記号で表現してしまおうという試みだ。スペイン出身・ロンドン在住の若手デザイナーがまとめたもの。これは哲学のマンガ化と言ってよいかもしれない。

**主義、++主義などの哲学の主張が、見開き2頁、一枚のアイコンにまとめられている。パラパラとめくっているだけでも楽しい。

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もっとも、正直に言えば、「どうしてこの哲学がこの絵になるのか」という結びつきは必ずしも強くない。「絵」を先に見て、これは何の哲学かと聞かれれば見当をつけるのは苦しい。先ほどの定義にしたがえば、やはりイラストよりマンガに近いのである。ちなみに「辞書風にまとめた」という編集方針は、アルファベットならではの秩序なので、邦訳では単なるアトランダムの順になってしまう。

ただし、いくつかの項目には相互参照関係が指示されており、これは並べてみると、哲学と絵の対応関係がよくわかる。たとえば下の集団主義と個人主義、決定論と非決定論は、セットとして捉えると、絵を先に見ても哲学が想像できそうだ。

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各々の哲学を独立してとりあげていくのは限界がある。対立関係や並列関係、代替関係のような論理的な関係性、あるいは歴史的関係や文化・風土との関係など、要するにセットやシリーズでとりあげていったほうが、読者にはわかりやすいのではないか。おそらくそうやっていくうちに、この作業はどんどんマンガ作りに近づくであろう。コマとコマが文脈によって連結していったものを私たちは普通マンガと呼ぶからだ。実際、上の例など、マンガっぽくないか。

この小さく楽しい本にこめられた大いなる可能性の一端にふれたつもりである。
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進歩の原動力―岡本太郎のエラン

岡本太郎(1911-1996)を特集したドキュメンタリー番組(BSアーカイブ)を見た。

岡本太郎といえば、縄文土器への思い、70年大阪万博の太陽の塔のプロデュース、「芸術はバクハツだ!」と叫ぶTVCFなどを真っ先に思い出す。特に太陽の塔の印象が鮮烈だ。

大坂万博のメッセージは「進歩と調和」であり、太陽の塔もその具体的なイメージの一つを担っていた。万博の開催された1970年は、高度成長の光(物質的豊かさ)と影(公害問題など)が一挙に噴出した時代とも言えるので、このメッセージは危ういと言えば危ういものだった。石油ショックををへて70年代には、むしろ高度成長への批判のほうが強くなっていったくらいである。

しかし、岡本は、イデオロギーや意見の対立というようなことにはあまり興味がなかったのではないかと思う。社会問題に無関心だったと言いたいのではない。むしろ逆で、パリ在住時代にピカソの「ゲルニカ」に感銘を受けた岡本は、戦後、原爆の問題にこだわり続けた。幻の作品に終わったメキシコの壁画「明日の神話」はその象徴である。文明の生み出してしまった悪の力に対応するためには、人間の側に、それをはねかえすだけのプリミティブな力強さが必要だ。

そんな岡本の思想は、太陽の塔でいえば、内部展示を見たほうがよくわかる。万博のときに小学校5年生だった私(「20世紀少年」の浦沢直樹さんの同世代)は、関西の親せきを頼って大坂に行き、1週間くらいかけて万博見物をした。中でも、太陽の塔の内部展示はよく覚えている。

内部は空洞になっていて、地階から上に向けて、進化の系統樹が伸びていいる。一番下に単細胞生物がいて、途中に恐竜がいて、てっぺん付近に人類がいる。観客はEVで上まで上がり、さらに階段を下りながら展示を眺める。

てっぺんが人類というと、何だかいかにも、「進歩」を無条件に信じた高度成長期的なコンセプトのようだ。しかしドキュメンタリー番組を見ると、岡本太郎の眼目は「単細胞生物」にあったことがわかる。「観客は恐竜とか喜ぶだろうし、実際、制作費もかかるよね。しかし、大事なのは、単細胞生物、そこにある(根源的な)生命力なんだ」という意味のことを力説していた。

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ちなみに塔の地下には、仮面を中心にした世界の民族学資料が集められ、これは後の国立民族学博物館のベースになった。未開民族の文化は、岡本にとっては人類史の中での(よい意味での)単細胞生物時代だったのだろう。

進歩の「結果」ではなく、進歩の「原動力」に目を向けよ。―進歩の結果は多様性・複雑性であり、場合によっては諸々の対立である。また、進歩の実質的な行き止まりに辿り着いてしまうこともあるだろう(いわゆるガラパゴス化)。そんなときは、結果に目を奪われるよりも、原動力に回帰するのがいい。

ベルクソン哲学でいえば、エラン・ヴィタル(生の飛躍)だ。どんな不調和に直面しても、どんなに行き詰まっても、生命には、その都度毎に原点に立ち返り、環境をはねかえし、新しい調和を創り出していく力がある。それこそが岡本の言いたかったことだし、いま、私たち日本人が受けつぐべきメッセージなのだと思う。

幻の007エイティーズ

映画音楽には時代の香りがする。それを聞くとその時代のことを体の芯から思い出すという意味だ。

とくに80年代は私の20代のころで、思い出深い。たまたまラジオ番組で80年代特集をやっていたのだが、たとえば「ストリートオブファイヤー」「フットルース」「フラッシュダンス」「トップガン」あたりは、主題歌はもとより、映画自体も含めて80年代らしいと思った。

よくいえばスタイリッシュで、洗練されたかっこよさがある。意地悪な言い方をすれば、中身より形式で、ストーリーや思想の深みには乏しいのである。

こうした時代の特徴は、長期シリーズ化した映画の中での変遷をたどると、より鮮明になる。007シリーズなどは格好の考察材料だ。1962年「ドクターノオ」から2012年「スカイフォール」まで23作。以下に年代別の作品数を示す。

1960年代  6
1970年代  5
1980年代  5
1990年代  3
2000年代  3
2010年代  1

ビルボード誌が発表したシリーズのベストテーマソング10(註)を時代順に並べると次のようになる。

1960年代
シャーリー・バッシー「ゴールドフィンガー」5位
トム・ジョーンズ「サンダーボール作戦」7位
ナンシー・シナトラ「007は二度死ぬ」9位
1970年代
シャーリー・バッシー「ダイヤモンドは永遠に」10位
ポール・マッカートニー&ウィングス「死ぬのは奴らだ」3位
カーリー・サイモン「私を愛したスパイ」2位
1980年代
シーナ・イーストン「ユアアイズオンリー」4位
リタ・クーリッジ「オクトパシー」8位
デュラン・デュラン 「美しき獲物たち」1位
1990年代
マドンナ「ダイアナザーデイ」6位

これを見るだけでも、重厚な60年代、華やかな70年代、軽やかな80年代という特徴がわかる。

しかし80年代については、本当にこれが「らしい」かといえば、やや微妙である。選ばれているのは、いずれも70年代からボンド役をつとめるロジャー・ムーアによる007映画だ。しかし、実は本当に80年代らしかったのは、ここにはあげられていない、1987年の「リビングデイライツ」ではなかったかと思う。ロジャー・ムーアが降りて、ティモシー・ダルトンに変わった第一作だった。主題歌はa-ha。

ダルトンのボンドは独特の気品があったし、a-haのスタイリッシュな主題歌とあいまって、この映画こそ80年代的な路線を打ち出していたと思う。最近見直したが、今見ても面白い。

しかしヒットはしなかった。ボンド役のダルトンも主題歌も、それまでの男性ホルモンのみなぎった007シリーズの中では異色だ。ダルトンは次作89年の「消されたライセンス」でもボンド役をやったが、結局、二作で降りている。

この挫折には、歴史の影もある。89年はベルリンの壁崩壊の年だ。東西冷戦のスパイ合戦を背景に生まれたシリーズにとっては存在自体の危機だった。

実際、1989年にダルトンによる16作目が作られた後、1995年の新たなボンド役ジョージ・レーゼンビイの17作目まで、6年の間隔があいている。これはシリーズ最長の間隔である。

シリーズのテイストからいっても、歴史の必然性からいっても、「真に80年代的な」007路線は幻に終わらざるをえなかった。


http://matome.naver.jp/odai/2135550260483235901




アーリー・エイティーズの夢

昨年、安西水丸と赤瀬川原平が亡くなった。画家を原点とするこの二人は、1980年代という時代背景の中に置いてみると、意外に似たところがある。

安西は、「何でもない事の面白さ」を発見する名手で、その才能は80年代の「カタログ文化」の中で花開いた。「ポパイ」や「ホットドックプレス」といった男性ファッション誌、「ぴあ」のような情報誌のカタログ的な情報が、役立つだけでなく、面白い情報として受け止められる。そんな時代だった。

ストーリー性や意味から解放されるとき、人は何でもない事の面白さを発見する。軽さの中の深さに気付く。それは80年代に松任谷由実、 村上春樹がねらった表現世界に通じる。

安西は、松任谷由実の1982年のアルバム「パールピアス」のブックレット、そして翌83年、村上春樹の初の短編集「中国行きのスロウボート」のカバーのためにイラストを描いた。いま見ると、まさに時代の匂いがたちのぼる先品だ。村上は安西をソウルブラザーと呼んだ。

一方、赤瀬川原平は1960年代のカウンターカルチャーの中から出てきた人で、安西とは立ち位置が全く違う。初期の前衛芸術家の顔だけでなく、小説家、エッセイストなど活躍の場面も広い。

しかし、赤瀬川の80年代の代表的な活動「路上観察学会」(86年設立)は、やはり時代とのシンクロを感じさせる。まちなかのありふれた風景の中に、ちょっと変なものを発見して面白がる。70年代の「超芸術」活動が熟し、今和次郎の「考現学」の再発見につながり、「路上観察学」になったわけだ。

以前にもブログに書いたことがあるが、80年代の前半は、バブルに向う後半とは全く違うムードの時代だった。

何でもない事の面白さ、やさしい事の深さ、ディテイルに潜む本質、細部に宿る神。芸術から思想、文化、ライフスタイル、ファッションに至るまでに現れたこの志向性を、80年代初期様式、アーリーエイティーズとよびたい。

残念ながら、バブルの喧騒の中でアーリーエイティーズは儚く消えた。しかし、そこには今でも振り返るに値する何かがある。

辛いときの思考パターン

自分はなぜつらいのか。物事はなぜうまくいかないのか。そんなとき、誰かのせいだとを責任をなすりつけたくなるものだ。どこかに悪いやつがいる。あるいは、甘い汁を吸っている。

第一次大戦後のドイツ人は、ヒットラーに乗せられて、ユダヤ人を悪者にした。当時のドイツは不況とインフレに苦しんでいた。ヒットラー自身が貧しい画学生だった。

イスラム過激派はアメリカをはじめ先進国を悪者にする。逆に、かつての小ブッシュ大統領は、いくつかの国を「悪の枢軸」と呼んだ。

私たちは身近な生活の場面で、つい悪者探しをしてしまう。「いじめ」というのも、一種の悪者探しであろう。誰かを、何かをスケープゴート(いけにえ)に仕立て、結束する。そのとき、結束が大きな力となり、現実を動かす。人々は、日頃のうっぷんをはらす。行き詰ったときの人間の一つの思考パターンだろうか。

いわゆる構造改革の議論も、下手をすると悪者探しになってしまう。1990年代、小泉さんの郵政民営化はなぜあれほどの支持を得たのか。格差や雇用の流動化が問題になる中で、郵政職員が安定身分のシンボルとして標的になってしまったのだろう。

日本アカデメイアという産官学で構成される団体が、先月、2030年の日本を見据えた長期ビジョンを発表した。正式なタイトルは「戦後70年  我々が次の世代に残すべき日本の姿〜2030年を見据えて〜」。

人口や財政の厳しい現実を見ない態度を「余剰幻想」と呼び、そこからの脱却を求めている。「2030年に向けて求められるのは、先ずは「余剰幻想」に寄りかかって過度の便益を享受している部門や領域の見直しを進めることである。」

抽象的な言い方だが、ここにも、まずは甘い汁を吸っているやつを退治しなければならないという思考パターンが見られる。

かつての池田内閣の所得倍増計画には、こういう思考パターンは全くなかった。日本人みんなで頑張って豊かになるのだということがシンプルかつナイーブに掲げられていたものだ。

時代が違うと言えばそれまでだ。しかし、これではなかなか国民的な一体感は生まれない。いっそのこと、みんなで一斉にガマンしようとよびかけたほうがまだスッキリすると思う。それで国民の反発をくらうとしたら、厳しい現実の説明が不足しているのである。