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主観的健康感を高める方法

前回のコラム(2011/11/17)では若者の幸福感をテーマにした。今回は高齢者の幸福感をテーマにしよう。若者の場合は「友人関係」がうまくいっているかということが幸福感に大きく影響していたが、中高年になると「健康状態」の影響が大きくなる。高齢者の関心の第一は健康であろう。

健康問題を社会論として考えるアプローチにもいろいろあるが、社会疫学というジャンルで相応の実績があるようだ。以下の記述は、3万人以上の高齢者の大規模調査に基づいた『検証「健康格差社会」』(医学書院)という本に負っている。

健康状態の指標に「主観的健康感」というのがある。これはなかなか興味深い指標だ。指標の作り方はいたってシンプルで、「あなたの健康状態はいかがですか」といった質問に対して、三択(よい、ふつう、悪い)や五択(非常によい、まあよい、あまりよくない、よくない、非常に悪い)で答えてもらう。本人の気分で答えているのだから、アテにならないようにも見えるが、さにあらず。自分の健康状態を「よくない」「あまりよくない」と答えた人は、客観的健康状態が同様な者たちの間でも、死亡しやすいそうだ。主観的健康感は、医師による臨床的判断とは必ずしも一致しない。そして医師による評価よりも、その後の死亡や健康状態を正しく予見するという報告もあるという。「病は気から」という諺は、案外深い真実を言い表しているわけだ。

素人考えかもしれないが、主観的健康感は、健康状態の結果を表す指標であるだけでなく、健康状態に影響を与える要因でもあると思う。つまり、具合が悪いと思っていると、本当にどんどん悪くなってしまう。逆に、心に健康だと思い続ける、言い換えれば、できるだけ明るい気持ちを持ち続けるようにつとめれば、客観的な健康状態も良くなる。

では、主観的健康感を高めるにはどうすればよいのだろうか。心に健康だと思い続けることのできる人とは、どういう生活をしている人なのか。上記の大規模調査は、高齢者の主観的健康感とさまざまな社会的・個人的条件との関係を分析している。その中でも私が面白いと思ったのは、人と関わったり人の役に立ったりすることが、主観的健康感の向上に大きな役割を果たしているらしいということだ。

たとえば趣味が「ある」高齢者のほうが主観的健康感の高い人が多い。趣味はしばしば交友の機会になる。実際、社会的ネットワークの指標とされる、友人と会う頻度が「週1回以上」という人も多かったという。何らかの地域組織(政治団体、業界団体、ボランティア、市民運動、宗教団体、スポーツクラブ、町内会・老人クラブ、趣味の会)に参加している高齢者のほうが主観的健康感の高い人が多い。就業の有無で見ると、主観的健康感のよくない者は非就業者に多い。また、他者からサポートを受けるだけの高齢者より、他者へのサポート提供もしている高齢者のほうが、心理的健康状態はよいという結果もある。

もちろん、相関関係は、必ずしも因果関係ではない。そもそも主観的健康感が高いから能動的な社会参加をするのか、能動的に社会参加するから主観的健康感が高いのか。前者ならば、主観的健康感の低い人にチャンスはない。しかし私は敢えて後者の側面を強調したいと思うのである。具合が悪い、健康がすぐれないと思っている人ほど、能動的に社会参加してみるほうがよい。それは個人にとっての健康法の実践的なヒントであるともに、健康・医療・福祉関係の団体、企業にとってのサービス提供の実践的なヒントになるだろう。

最後に、主観的健康感とソーシャル・キャピタルの関係についての分析を紹介する。ある一つの社会や地域、集団のなかで、協調的で生産的に働くときの人間関係をソーシャル・キャピタルと呼ぶ。ソーシャル・キャピタルの充実度は、地域の組織への参加数や住民の交流頻度、信頼感、助け合いの規範などをアンケートで尋ねて集計し、指標化することが多い。この大規模調査では「一般的信頼感」(「一般的に、人は信頼できると思いますか」といった質問に対する回答の地域別集計)をソーシャル・キャピタルの指標とし、ソーシャル・キャピタルと主観的健康感の関連も分析している。ソーシャルキャピタルの高い地域では、主観的健康感の「よくない」と答える確率が減少するという。「よくない」が「減少する」というのはちょっとわかりにくいが、相関関係があるようだ。となれば、高齢者の健康にとって、ひいては高齢者の幸福にとって、よりよい地域と、そうでない地域があるということになる。

冒頭に幸福感に影響を及ぼす要因として、若者は友人関係、高齢者は健康状態が重要と書いたけれど、高齢者の健康状態も結局は人間関係のあり方次第なのかもしれない。
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セカイ系からムラ系へ

今の若者たちにとって仲間や友人は、幸福の源泉だ。これは数年前から若者論、消費論の一部で指摘されてきたことである。消費社会研究家の三浦展は「もはやモノを買うことでは幸せになれない若者は人間関係の消費へ向かう」と早い段階から指摘していた。若者の仲間内・地元志向な点に注目して「新村社会」と名付けたのは博報堂の原田曜平だった。

最近出た古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』は、この路線の若者論の決定版になるかもしれない。何しろ1985年生まれ、26歳という若者の著者が若者を分析し、「まるでムラに住む人のように、『仲間』がいる『小さな世界』で日常を送る若者たち」をややシニカルにではあるが肯定的に語っているからである。

古市がまず強調するのは、今の若者の生活満足度、幸福感の高さだ。格差社会論の文脈では若者はかわいそうだという議論が多かったが、当の若者たちは幸せなのだ。たとえば内閣府の『国民生活に関する世論調査』によれば、2010年の時点で、今の20代の約7割は現在の生活に「満足」していると答えている。とくに男子については過去40年間で15%近くも満足度が上昇している。

一方で、古市は若者たちの不安感にも注目する。「日頃の生活の中で、悩みや不安を感じているか」という項目を見ると、2010年の時点で、20代の63.1%が悩みや不安を感じている。20代の「不安度」は、1980年代後半には4割を切っていたが、90年代前半から上昇している。今の生活、身近な生活には満足だし幸福だけれど、未来や社会など大きな問題になると不安だというわけだ。

身近な生活を幸福にしてくれるのは、仲間の存在だ。内閣府の『国民生活選好度調査』(2010年)は、10点満点で「幸福度」と「幸福度を判断する際、重視した事項」を聞いている。国民全体では「健康状態」と答える人が多いが、15~29歳の若者では60.4%が「友人関係」と答えていて、他の世代と比べて突出して高いのである。

古市はワールドカップで盛り上がったり、震災ボランティアに駆けつける若者たちの生態をレポートした後、最後の章で再び若者の幸福の問題に立ち戻る。古市がたどりついたのは、幸せの条件を、「経済的な問題」と「承認の問題」の二つに分けて考えるということのようだ。

今の日本は史上まれに見る豊かな社会を実現しているが、将来については高齢化や財政破たんなど不安が大きい。個人レベルでも同じようなことが言える。今なら親と同居していればフリーターや非正社員でも経済的に困ることはあまりないかもしれないが、生涯賃金や将来の親の介護などを考え始めれば不安が大きいだろう。しかしそういった「経済的な問題」は未来の問題だ。これに対して、友人に認められるか、仲間内に居場所を持つかといった「承認の問題」は現在の問題である。かくして、現在の幸せ感と将来への漠然とした不安を抱えて生きていく。自身が若者である当事者の古市の言葉を引用すれば、「なんとなく幸せで、なんとなく不安。そんな時代を僕たちは生きていく」というわけだ。

仲間・友人による承認問題の特徴をもう少しよく考えてみるために、恋愛・恋人による承認問題と対比させてみよう。「世界は二人のために」という古い歌があったように、恋愛は純化し、閉じていこうとする。2000年前後のオタク文化に登場した「セカイ系」の物語は、恋愛・恋人中心の「承認の物語」であったと言えるだろう。「無力なボク」は「世界の敵と戦う彼女」との間に絶対的な相互承認の関係を作ろうとする。そこにはまったく第三者の介在を許さない。セカイ系とはやや皮肉なネーミングで、そこで承認を求めあう男女にとっては、世界の存在すら本当はどうでもいいのである。

これに比べれば、古市が示したような仲間・友人による「ムラ」のほうがまだ開放的だし、現実的だ。もちろんムラそれ自体は狭い世界だ。今の若者たちは、そんなムラを楽しみながらも、時に「なにかをしたい、このままじゃいけない」という思いにかられる。古市によれば、「ムラムラさせるもの」を求めている。震災ボランティアなどはそんな若者たちにとって格好の出口であったという。昔ながらの「村」でなく「ムラ」と片仮名で呼ぶことに実質的な意味があるとすれば、仲間をどんどん増やしていく柔軟性、開放性ではないだろうか。

ミルの社会的幸福論

テレビをほとんど観ない人なので、NHKの教育テレビをつけようとすると今でも「3」のボタンをプッシュしてしまう。そんな私なのだが、たまたまテレビをつけたら教育テレビ(今はEテレと言うのか?)の『100分de名著』という番組をやっていた。25分×4回で名著に詳しい有識者を呼んでアナウンサーが話を聞くという趣向の番組で、フランスの哲学者アランの『幸福論』をとりあげていた。『幸福論』は11月いっぱい、毎週水曜日に放映される。

アランの『幸福論』なら昔、読んだことがある。番組の第1回で紹介された「幸福だから微笑むのではない、微笑むから幸福になるのだ」というフレーズもよく覚えている。女子アナウンサーが「笑う門には福来るって言いますよねー」と相槌を打っていたが、これはなかなかよい相の手だ。アランの幸福論には、昔ながらの格言やおばあちゃんの知恵のような具体性、実践性がある。

人がなぜ幸福論を読むかと言えば、自分が幸福になりたいからであろう。このブログでは、より多くの人が幸福になりえる社会、そのために必要な条件を考える。これを社会的幸福論と呼ぶとしよう。一昔前ならば、こういうことは、政治家や役人、企業の経営者だけが考えていればよかった。しかし、経済的な豊かさがある程度行き渡ってゆくと、幸福の条件が多様化して、専門家だけでは適切な判断ができなくなってしまう。そこで、普通の市民や消費者が、社会的幸福論を考えたり、発言したり、場合によって何か行動したりといったことが、大きな意味を持ってくる。回り道のようだけれども、社会的幸福論は、やはり自分が幸福になるための幸福論なのだ。

社会的幸福論の元祖としてよく引き合いに出されるのは、イギリスの思想家ジェレミー・ベンサムの「最大多数の最大幸福the greatest happiness of the greatest number」だ。ベンサムは18世紀末から19世紀にかけて活躍した人で、その立場は「功利主義Utilitarianism」とも呼ばれる。

ベンサムによれば「快楽―苦痛=幸福」という幸福の方程式が成り立つ。この差し引き結果をプラスの方向に最大化すればよい。ある人のある行為は、ある人にとっての差し引き結果と、関係者にとっての差し引き結果を総計して、全体でどうなっているかで評価する。ベンサムがこうした原則を述べたのは『道徳および立法の諸原理序説』という著作の中であり、もともと、法律の正当性、妥当性を明らかにするためのものだった。たとえば、ある犯罪が刑罰に値するのは、犯罪者の得る快楽よりも、被害者、関係者の苦痛が大きいからであり、どの程度苦痛が上回るかによって刑罰の重さも決まるということになる。この適用例を読むと、何かへんだな?と誰でも思うであろう。ベンサムの計算はシンプルで公平のようだが、現実にあてはめるとちょっとへんなことになる。快楽の質的な違いや道徳感情の存在を無視した計算には無理がある。

ベンサムの思想を引き継いだジョン・スチュアート・ミルも、このおかしさに気が付いていた。その著書『功利主義』の中では、肉体的快楽と精神的快楽、低次の快楽と高次の快楽など、快楽には質の違いがあると強調している。そもそも「幸福と満足という二つの非常に異なった観念を混同」してはいけない。「満足した豚よりも不満を抱えた人間の方がよく、満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい」。

私は、今日にも通じる社会的幸福論の元祖は、ベンサムではなくてミルだと思う。ミルの幸福や快楽に対する考え方は今読んでも説得力がある。ミルには『幸福論』と名付けられた著書はない。しかし何を論じていても、幸福を目的とした社会論、政策論になっている。

たとえば『自由論』は、自由を幸福と関連付けた社会的幸福論でもある。自由主義がなぜ望ましいかと言えば、まず何よりも、「個性の自由な発展が、幸福の主要な要素の一つである」からだ。人と人との相違は著しい。「もしもこれに対応するだけの相違が人間の生活様式の中にも存在していないならば、人々はその正当なる幸福の分けまえを手に入れることができない」。また、個性の発展は、人類の知的、道徳的、美的な発展、進歩のためにも不可欠だとされる。「自由によってこそ、およそ存在している限りの個人と同じ数の独立した改革の中心がありうる」。

「グローバル定常社会」を提唱する千葉大学の広井良典氏は、「定常社会」に最初に注目した経済理論として、ミルの『経済学原理』に注目している。ミルは将来の経済社会の姿として、豊かで停滞的な社会を予測した。そのような社会では、経済的な進歩がない代わりに、多くの人が「自由に人生の恵みを開拓する状態」が実現する。それは結果として、精神的・文化的な進歩を促すであろう。幸福を目的論に考えていたミルにとっては、経済が停滞的であること自体は決して残念な状態でも嫌うべき状態でもなかったのである。

Z軸の幸せを求めて

絵本作家ターシャ・テューダーの暮らした家を博物館にしようという計画があるそうだ。日本でも支援の動きがあるという。

実をいえば、つい最近までターシャ・テューダーという人を知らなかった。絵本作家としてはもとより、ガーデナーとして有名だとか。究極のナチュラル・ガーデンを作り、スローライフを実践した人として、日本でも人気があるらしい。ガーデニングには私同様疎いが流行には私と違って敏感な妻によれば、NHKが2005年に放映したドキュメンタリー番組『喜びは創りだすもの ターシャ・テューダー四季の庭』で一躍有名になったのではとのこと。そこでYouTubeで番組をチェックしてみた。

番組は、90歳(亡くなる3年前)のターシャのバーモント州の田舎暮らしのありさまを収録している。電気・ガスはなるたけ利用せず、入植時代の古い道具を今でも大切に使う。周囲の木々や花園は、すべてターシャがたった一人で種を植え、育てたものだ。30年以上かけて、荒涼とした3千坪のイモ畑を世界中のガーデナーが憧れるナチュラル・ガーデンに作り変えた。

ターシャは1915年にボストンの名家に生まれた。しかし社交界が大嫌いで、小さいころから農業に興味があり、10歳の誕生日には念願の牛を買ってもらったそうだ。両親の離婚を契機に学校を辞め、15歳から農業と絵を描く生活を始める。後に絵本作家として有名になるのだが、子どもに与える食べものと同様、子どもに与える絵本は「自分で作る」というのがごく自然なことであったようだ。

ターシャの生き方が今の先進国の都会人の心をつかむのはよくわかる。それは私には、イヴァン・イリイチという思想家がかって提唱した「Z軸」を思い出させる。イリイチは「豊かさのパラドクス(物質的に豊かになっても幸せにならない)」に注目したヨーロッパの知識人の一人だ。「Z軸」は、幸せの新しい物差しのようなものだ。

イリイチによれば、「どのような社会がより幸せか?」を考えるための物差しは三つある(「公的選択の三つの次元」/『シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う』所収)。X軸は社会体制の選択だ。1960年代くらいまでは、資本主義体制か社会主義(共産主義)体制かとい選択が真剣に議論された。欧米、日本の多くの知識人にとって、社会主義(共産主義)的であればあるほど、幸せな社会だと考えた。体制の選択、つまりX軸という物差しはもはや用済みであろう。

二番目にイリイチが挙げたY軸、技術的選択という物差しは今もなお真剣に議論されている。技術的選択は、ハードかソフトかという選択であり、ソフトであるほうが望ましいとされる。たとえばエネルギーは石炭より石油、さらに太陽光のほうがよりソフトであり、望ましい。今風に言えば、技術は「よりスマートに」なるほど、人々を幸せにする。イリイチ自身はこうしたソフト・パス(スマート・パス?)の議論をあまり信用していない。イリイチの批判は3・11フクシマ後の今にも通じる興味深いものだが、今回はさておくとしよう。

三番目のZ軸は、生き方の選択と言えるかもしれない。専門家によるサービスに依存するか、自立・自存の生活かという選択だ。「持つこと」(having)か「行為すること」(doing)かの選択だともされる。「自分で作る」生活にこそ幸せがある。

ここでイリイチは大変皮肉な指摘をしている。商品や専門家サービスに依存しない生き方は、一部の特権階級にしかできない。「新たな「満足」を手にすることよりも、開発のもたらす損害から身を守ることのほうが、人々の一番求める特権になった」。たとえば、通勤しなくてよい、新鮮な空気を吸える、自宅で子どもを産む、自分で丸太小屋をつくる、医者にかかるのでなく特別な知識と方法で治す、などのことができる人は人生の成功者だというのである。大半の人は、そして下層階級であるほど、学校、病院、交通などの近代的サービスを消費しなければならない。最近の日本の例で言えば、お金にも時間にも余裕のない人ほどファストフードに依存する。素材にこだわったり、自分で料理を作る人はある程度恵まれた人だ。そういえば最近見たある調査では、所得の高い人ほどロハス志向だという結果が出ていた。

しかし、お金によって買う「自立」は結局、本当の意味での「自立」ではないだろう。では、ターシャのように敢然と文明世界に背を向けるべきなのか。ターシャの信念、勇気、忍耐、行動力には感動するけれども、社会全体で「昔の暮らしに帰る」べきなのかとなると、私にはとてもそうは思えない。Z軸を社会全体の目標にするためには、まだまだ、いくつもの議論が必要だ。

国際結婚というネタ

最近、長い入院生活を余儀なくされた。無聊の慰めにと、職場の同僚だちがいろいろなマンガや本の差し入れをしてくれた。その中で面白かったもののひとつに、井上純の『中国嫁日記』がある。40歳のモテないオタクが、20代のかわいい中国人女性と結婚する。育った国や文化が違うゆえの、日常生活で発見する違和感、おかしさ、新鮮さがネタ。数年前にヒットした『ダーリンは外国人』とは夫婦の立場を入れ替えたかっこうになる。この手のネタがだいたいそうであるように、『中国嫁日記』も基本的には「おのろけ」話である。しかし「40歳のモテないオタク」と称する作者の純情が伝わってくるせいか、むしろ応援したい気持ちになってくるから不思議だ。

日本社会のメンバーの一員として外国人は確実に存在感を増している。最近の新聞の一面見出しに「日本人の人口減 国勢調査で初」(朝日新聞2011.10.27)というのがあった。よく見てほしいのだが、「日本の人口減少」ではなく「日本人の人口減少」だ。人口減少社会は今のところ、日本人人口の減少なのである。

総務省が発表した2010年国勢調査の確定結果によれば、国内に住む「日本人の人口」は5年間で0.3%減少した。一方、外国人と国籍不明者を含めた「総人口」は0.2%の増加だった。言いかえれば、日本に住む外国人人口の割合が高まっている。その割合は2.1%。5年前の2005年調査では1.6%であった。

この割合が大きいのか小さいのかを考える目安として、時系列で他の国と比べてみよう。「外国人とは何か」は、国別に法律で定めるものだから、世界共通ルールはない。だから統計数字を比べるのは実は難しいのだが、目安だけなら、ILOデータの「International migrant population」の数字でよいだろう。これを各国の外国人人口として、総人口に対する割合を見るのである。

約20年前の1990年では、米国7.9%、ドイツ8.4%、フランス6.3%、イギリス3.2%、イタリア1.4%、日本0.9%だ。最近年は年度が揃わないので国別にわかる範囲内での最新年で並べてみると、米国11.7%、ドイツ8.8%、フランス5.8%、イギリス5.2%、イタリア4.5%、日本2.1%になる。

日本は20年前に比べれば2倍になっていること、それでも欧米先進国の中ではまだ低いことがわかる。面白いのはイタリアの例で、20年前には今の日本とさほど変わらない水準だったのに、急速に高くなっている。外国人人口の増減は政策に依存するところが大きい。日本もイタリアのように移民積極策に転じれば、ヨーロッパ並みになる可能性はある。私は移民積極派ではないけれども、門戸はやはり少しずつ広げていくべきだと思う。実際、外国人人口は今後もある程度増えていくだろう。日本人人口の減少(死亡数が出生数を上回る自然減)は避けられないから、結果的に、全体に占める外国人人口の割合はまだ高まっていくだろう。

日本社会での幸せのかたちを考えるとき、日本人というより日本に住む人の幸せを考えるべきだろう。『中国嫁日記』や『ダーリンは外国人』のような国際結婚マンガを読むだけでもそんなふうに感じられてくる。人口動態調査によれば、「夫妻の一方が外国」という婚姻件数は、今や全婚姻件数の5%、つまり20組に1組が国際結婚である。1980年には1%未満、つまり100組に1組もなかった。
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