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数寄(すき)の消費

昨年大病し、しばらく宴席の類から遠ざかっていた。先々週、回帰祝いを兼ねてA・Mさん、K・Mさんと鍋を囲むことができた。場所はA・Mさんの隠れ家マンションだ。3人とも50代前半の中年男である。共通点は、20代のときにパルコという会社でマーケティング情報誌を一緒に作っていたこと。当時の編集長だったA・Mさんは、今はマーケティングアナリスト、消費社会研究家として著名な方である。K・Mさんはまだパルコの社員。

鍋がひととおり片付いたころ、A・Mさんが「クリフォード・ブラウンの究極の復刻盤聞く?」とアナログレコードを取りだした。ディスクユニオンが昨年の11月からリリースを開始した「ブルーノート・プレミアム復刻シリーズ」だ。

「ブルーノート」は1950~60年代のモダンジャズの名盤を数多く出したレーベルで、復刻盤はアナログレコード、CDともにこれまでも出されてきた。「究極のアナログ盤復刻」と称したこのシリーズでは、ジャケットや盤だけでなく、サウンドそれ自体の復刻に力を入れたという。ディスクユニオンの宣伝文句には「あえて、RVGサウンドに近づけようとはせず、素のマスターテープに記録された音をそのまま円盤に刻み込みました(モノラル音源)。それにより、録音現場のそのままの生々しい音の記録をリアルに再生可能になりました」とある。

ちなみにRVGは全盛期のブルーノートのレコーディングを多く出かけたルディ・ヴァン・ゲルダー(Rudy Van Gelder)の頭文字。私は技術屋ではないのでよくはわからないが、ジャスの演奏は、素のマスターテープから何らかの編集作業をへて最終的にレコードに刻み込まれるのであろう。権威あるルディ・ヴァン・ゲルダーの編集にはこだわらず、一番大元までさかのぼって作った、まさに「究極のアナログ盤復刻」というわけである。

で、これがどうであったかというと、確かにすごいのである。音に立体感、ゴツゴツ感がある。昔のジャズ喫茶にタイムスリップしたような気分だ。ためしに別の復刻盤と聞き比べてみると、明らかに違っていた。そのレコードだってもちろんなかなかのもので、これまで「やっぱりアナログは違う」と感心してきたレコードの一つなのだが、比べてしまうとツルツルした感じ(BGMのように流せる感じ)がしてしまう。A・Mさんは唸る。「うーん、いいねえ。『ほしいものなんてもうない』とか言われるけど、こういうのは買いたくなるよね」。

こうなると、欲望はさらにふくらんでいく。もっといいオーディオ環境で聞けば、もっと感動するのではないか。A・Mさんの揃えたスピーカやアンプは私などから見るとずいぶん高価で立派なものに思えるのだが、上を見ればきりがない世界である。そこで、A・Mさんは「アナログレコードをジャズバーに持ち寄って楽しむ会」をやろうと言い始めた。ちょうどよい店がある、六本木WAVEの設立スタッフだった某氏が最近定年退職し、吉祥寺にカフェを開いた。退職金をはたいてであろうか、すばらしいオーディオ環境を整えているらしい。同好の士を募り、場合によっては店を借りきってしまおう。各人が自分の好きなレコードを持ち寄る。皆で聞いて楽しむのだから、できるだけ誰でも知っている名曲が望ましい。ジャズだけでなく、ロックでもよいし歌謡曲でもよいとする…。

以上のエピソードから考えてみたいのは、「数寄」消費の可能性だ。「数寄」とはマニアックな趣味でレベルの高いもの指す。「スキモノ」の「スキ」だと思えばよい。数寄はさまざまな消費活動を生む。数寄の商品は多少高価でも買うものだし、持ち寄って楽しめば飲食の消費も生じる。

数寄消費はもちろん量産の世界ではないので、個々の市場規模はそんなに大きくない。たとえばディスクユニオンの「プレミアム復刻シリーズ」は昨年末から1期、2期計10タイトルがリリースされた。1タイトル5250円だから単価は高いほうだが、販売枚数は限られているだろう。日本人らしい「こだわりのものづくり」だからそもそも量産は難しいかもしれない。オーディオ環境の整備もお金をかけ始めればきりがなく、真空管を使ったアンプなど究極のレトロシステムまであるようだが、やはり買う人は限られる。

しかし、数寄消費は幸福と大きな関係がある。数寄消費には、自分独自の五感や能力を開拓する楽しさがある。そもそも数寄の道は一日にしてならず、何かを買っておしまいということではない。典型的な体験型消費なのである。そして「わかる人にはわかる」という同好の士が集まる楽しさが生まれる。典型的な絆消費でもあるのだ。体験型消費や絆消費が人間の幸福感を高めることは、心理学の研究でも実証されている。家電や自動車、ファストフードやファストファッションは、万人共通の利便性と安さを追求する。こうした量産品の広告でも「あなたらしさ」や「幸せ」が提案されることがあるが、それを頭から信じる消費者はもはや少ないであろう。幸せのマーケティングのひとつとして、数寄商品のマーケティングに注目したい。
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U字カーブを目指して

年齢と幸福にはどんな関係があるのだろうか。「あなたは幸福ですか」というアンケート調査の結果を年齢別に集計してみれば、年齢と幸福度の関係をある程度実証的に確かめることができる。諸外国の調査では、幸福度はU字カーブを描くという結果が多いらしい。つまり若いころは幸福度が高く、中年に及んで低くなり、老人になるほどまた高くなる。なるほど中年期には若い時の多くの夢を諦めざるを得ないし、義務や束縛が多い。リタイアが見え始めてからのほうが人生を楽しめるのかもしれない。ところが日本の代表的な幸福度調査の「国民生活選好度調査」では年齢が高くなっても幸福度は高まらない。U字でなくL字に近いカーブになっているという(『平成20年国民生活白書』の分析による)。

もっとも、こういう違いは本当に年齢だけによるものなのか、世代の違いもあるのではないかという疑問が必ず残る。特に日本のように第二次大戦を境に国民のライフスタイルや価値観の大きく変わった国では、現在の高齢者と戦後生まれの今後の高齢者とではいろいろな点で違いが出てくるであろう。

いずれにせよL字カーブではさびしい。どうしたらU字にできるのだろうか。そこで次に幸福の決定要因について見てみよう。平成21年度国民生活選好度調査の「幸福度を判断する際の重視する項目」を見ると、年をとるほど「健康」を重視するという人が増える。ちなみに全体平均でも「健康」は1位で、以下「家族」、「家計」、「自由時間」、「就業」、「友人」、「生きがい」、「職場」、「地域」と続く。しかし5歳階級別に見ると、「健康」が1位に上がってくるのは40代後半からだ。10代後半から20代前半までは「友人」や「自由時間」、20代後半から40代前半までは「家計」や「家族」が1位になっている。年をとるほど健康が重視されてくるという結果は、おそらく世代や国民性にかかわらずあてはまる結果であろう。

老いて健康であることは、個人の幸福にとって望ましいだけでなく、社会的コストの観点からも望ましい。日本のような超高齢社会では医療費・介護費が財政圧迫の大きな要因になるからだ。そこで、老いて健康であるための方法は、個人の幸福論としても、社会的幸福論としても重要なテーマだ。もしよい方法があるのなら、政府や役所は税金を投入してでも積極的に取り組むべきであろう。

ここで注目したいのは、老人医療費と高齢者就業者率の相関だ。「平成19年版厚生労働白書」によると、高齢者就業率(70歳以上人口のうちの就業者数の割合)が高い都道府県では1人当たり老人医療費が低いという相関関係がある。これで見ると、高齢者就業率が1位の長野県は老人医療費が最下位である。高齢者就業率が最下位に近い北海道、大阪、福岡、沖縄などの老人医療費は高めになっている。

稲葉陽二・藤原佳典の研究(注)によれば、この相関は市町村で調べても成り立つ。65歳以上の就業率が高い市町村ほど、1人当たり老人医療費が低い。高齢者就業率1%ポイントの上昇が、1人当たり医療費6014円の減少と対応するという。1人当たり老人医療費は全国平均(2005年)で821千円だから、これは全体の0.7%に相当する。

健康だから働けるのか、働くから健康になるのかは微妙なところだ。しかし働いていたほうが体によいのは事実だろう。70代半ばになる私の母親は、古くからの友人との関係のほか、孫(妹の末娘)の世話、ボランティアや自治会の活動、週1回の区民公共施設貸出の管理人などをやりながら上手く自分の居場所を作っている。この中で、収入のある管理人業務が思いのほか楽しいらしい。お小遣い程度にしかならない収入で、一種のプチ就業に過ぎないのだが、やはり「働く」ということの格別の重みがあるのだと思う。「やるべきことがあるってのは有り難い」というのが最近の口癖だ。

注)行動計量学第37巻第1号、稲葉陽二・藤原佳典「少子高齢化時代におけるソーシャル・キャピタルの政策的意義―高齢者医療費の視点からの試論」
http://www.jstage.jst.go.jp/article/jbhmk/37/1/39/_pdf/-char/ja/

島耕作と牛河利治の2012年問題

今年は「2012年問題」の年だ。団塊世代(1947年~49年生まれ)の最年長世代が65歳になり、リタイアする。会社や家庭での役割を終えた団塊世代が次の居場所を求めて動く。なにしろ団塊世代は、その前後の世代に対して突出して量が多いため、戦後日本社会でブルドーザーのような役割を果たしてきた。彼らの成長に従って、学校は定員を増やし、会社はポストを増やし、住宅地は郊外へと広がっていった。今度はどんな新しい風景を切り拓くのだろう。

もっとも、リタイアは入学や入社、結婚や子育てと違って、一斉の動きではない。総務省ホームページの「統計Today No.32 団塊世代をめぐる『2012年問題』は発生するか?」によれば、「仕事をしている人や探している人(男性)の割合は、60歳から67歳にかけて、9割から5割に徐々に低下」していく。最年長世代が60歳になったときから、最年少世代が67歳になるまでの間、つまり「2007年から2016年頃にわたる『団塊世代退職の10年問題』(2007~2016年問題)とでもいう方が、適当かもしれません」としている。

リタイアの時期だけでなく、リタイア後の第二の人生のあり方も多様であろう。起業してみたい、ジャズバーなどお店を開きたい、NPOで社会貢献してみたい、自治会など地域の活動をやりたい、田舎で農業をやりたいなど様々な希望がありえる。サラリーマンの男性と主婦の女性とではリタイアの意味がそもそも違うことにも注意が必要だ。女性の子育ては男性の退職よりずっと早く完了するから、夫が第二の人生を模索するとき、妻はすでに第三の人生を模索しているかもしれない。もはやブルドーザーの比喩は適切ではないだろう。パワーシャベルで一挙に土を掘り返すというより、一人一人がマイシャベルで思い思いの風景を作っていくのである。

もちろん、一つ一つのマイシャベルは小さくても、数の多い団塊世代全体に行き渡るころには、結果的に大きなうねりになる。「2012年問題」とは、団塊世代の高齢化に伴う社会変化をシンボリックに表現したものだと言えるだろう。「よい学校を出てよい会社に入ればよい家庭が持てて、幸せになれる」という考え方を私は「近代幸せモデル」と呼んでいる。経済の成長を背景に、団塊世代の多くが、それぞれなりにこのモデルに近い人生を送ることができた。しかし、会社をリタイアし、子どもたちも独立した今、このモデルはもう用をなさい。次の幸せモデルは何か。これが2012年問題の本質だ。

ここで二人の団塊世代の男性に登場してもらおう。一人は組織の矛盾に戸惑いながらも社長まで上り詰めた男。もう一人は、弁護士として高収入を得て郊外に一戸建てを買い、絵に描いたような幸せ家族を一度は実現した男だ。二人とも現実の人物ではなく、団塊世代の人気クリエイターが作りだした団塊世代のキャラクターだ。漫画家の弘兼憲史(1947年生まれ)が作った「島耕作」と、小説家の村上春樹(1949年生まれ)が作った「牛河利治」である。

島耕作シリーズは、弘兼憲史が1983年に『モーニング』(講談社)で「課長島耕作」の連載を始めて以来、今でも描き継がれている。連載開始時の1983年に島耕作は大手電器メーカーの課長で36歳だった。ということは1947年生まれの団塊世代で、作者の弘兼と同い年である。主人公は以後、現実の時間の流れと同じスピードで年をとっていく。「課長島耕作」というタイトルで始まったこのシリーズは、主人公の出世と共に「部長島耕作」「常務島耕作」「専務島耕作」とタイトルの肩書も変わっていき、現在は「社長島耕作」として連載されている。

今年2012年、島耕作は65歳になる。彼は既に役員だから「定年退職」という問題は存在しない。しかし、このままでは、あと続けるとしても「会長島耕作」「相談役島耕作」などしか残っていない。これではあまりワクワクしないではないか。これを機会に、島耕作が「会社」という居場所を捨てて、たとえば国際NGOで活躍するといった方向に話を転換させていったら面白いと思うのである。あるいは、若い起業家も含めて、会社を辞めた人たちや会社勤めではない働き方をしている人たちと一緒に何かのビジネスをするなどの展開だ。これまでの肩書は捨てて、タイトルもシンプルに「島耕作」とする。弘兼憲史ほどの凄腕の漫画家であれば、いくらでも面白い漫画ができると思う。

牛河利治は島耕作ほど有名な人物ではないだろう。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(1994年)と『1Q84』(2009年・2010年)に登場する中年男で、容貌の醜い、裏世界専門の私立探偵である。ちなみにこの二つの長編小説には共通点が多い。1984年の東京を舞台にしていること、人間の内面に潜む邪悪な力との戦いを基本テーマにしていること、主人公が30歳の男女でその別離と再会を軸にお話が進むことなど。『1Q84』は、地下鉄サリン事件(1995年)を踏まえて書き直した『ねじまき鳥クロニクル』ではないかと思えるほどである。

『ねじまき鳥クロニクル』から『1Q84』へ、牛河の人物設定は深みを増していき、「準主役」級の活躍をし始める。二つの長編小説のいずれにおいても、牛河は小さいころに愛された経験がなく、家庭を作ったが妻子に逃げられてしまった男という設定だ。しかしその生い立ちや成り行きの描き方はかなり違う。『ねじまき鳥クロニクル』の牛河の過去にあるのは素朴な暴力と貧しさだ。牛河は船橋の畳職人の息子として生まれ、アル中の父親が早死にしてから貧乏のドン底に落ち、高校をやっと卒業してからずっと裏街道の人生だった。結婚した後は妻に暴力をふるう夫で、二人の子供にも暴力をふるったため、妻が愛想をつかして子供を連れて出て行った、というものだ。

一方、『1Q84』の牛河の過去にあるのは、もっと屈折して洗練された苦悩である。ここでの牛河は浦和の富裕な医者の息子として生まれたことになっている。両親も兄弟姉妹も容姿端麗で学業優秀、スポーツ万能なのに、牛河だけなぜか極度に容貌が醜い。頭は良かったが成績にムラがあるし、体育はまったくダメ。家族みんなから無視されて育った牛河は、それでも25歳で司法試験に受かり、高い収入を得るようになる。見栄えのよい妻、私立学校に通う二人の娘、中央林間の一戸建て住宅、狭いながらも芝生の庭を駆け回る血統書付きの子犬。そんな生活を手に入れる。しかし、牛河はある事件をきっかけに弁護士免許を失い、妻は子供を連れて出て行ってしまった。

牛河の年齢はあまりはっきりしない。『ねじまき鳥クロニクル』では「四十代半ばから五十近く」となっていて、実は、これでは団塊世代にならない。牛河が団塊世代だとすれば、1984年においては30代後半(35~37歳)でなければならないからだ。しかし『1Q84』では「三十二歳から五十六歳までのどの年齢だと言われても、言われたとおり受け入れるしかない」としており、それなら団塊世代の資格ができる。牛河=団塊世代説の有力な根拠の一つは、彼が買ったとされる小田急線中央林間徒歩十五分の一戸建て住宅である。1980年代当時、郊外に一戸建てを買い始めた団塊世代を主役としたTBSのドラマが人気を得ていた。『金曜日の妻たちへ』(83―85年)三連作の二作目にあたる1984年放映版は中央林間が舞台という設定だったし、『金曜日には花を買って』(86―87年)は実際のロケを含めて中央林間を舞台とした。中央林間の駅はもともと小田急線の駅であったが、まさに1984年の4月に田園都市線とつながってその終点にあたる駅になった。田園都市線沿線の住宅街は、東急グループが「第二の世田谷をつくる」という考え方で開発したニュータウンだったから、山の手風のオシャレなまちというイメージを帯びていたのである。「近代幸せモデル」の最も見栄えのよい具体例と言ってよいかもしれない。

『1Q84』の牛河は最後、惨殺されてしまう。一番最後のシーンを引用しよう。「その瞳が生きている最後の瞬間に見ていたのは、中央林間の建て売りの一軒家であり、その小さな芝生の庭を元気にかけまわる小型犬の姿だった。そして彼の魂の一部はこれから空気さなぎに変わろうとしていた。」ここで出てくる「空気さなぎ」は、一言では説明しにくい比喩だが、ある種の「再生」のイメージが込められているだろう。我田引水すれば、近代幸せモデルの終わりと、新たな幸せモデルの誕生である。団塊世代の牛河利治を主役にした新しい小説を読みたい。村上春樹ほどの凄腕の小説家なら、それこそ新境地を拓く作品になると思うのだがどうだろう。

逆説の永続地帯

千葉大学倉阪研究室とNPO 法人環境エネルギー政策研究所が「永続地帯」というコンセプトを提唱し、全国の市町村の実態を調査している。永続地帯とは、エネルギーと食糧を自給できる地域だ。正確には、「その区域で得られる再生可能エネルギーと食糧の総量がその区域におけるエネルギーと食料の需要量を超えていれば」永続地帯とする。

『永続地帯2011 年版報告書』によると、100%エネルギー永続地帯は、2010 年3 月時点で52 市町村存在する。このうち、28市町村が食糧自給率でも100%を越えていたという。

【エネルギーと食糧の永続地帯(28市町村)】
北海道:磯谷郡蘭越町、虻田郡ニセコ町、苫前郡苫前町、天塩郡幌延町、有珠郡壮瞥町
青森県:西津軽郡深浦町、上北郡六ケ所村、下北郡東通村
岩手県:八幡平市、岩手郡雫石町、岩手郡葛巻町
宮城県:刈田郡七ケ宿町
秋田県:鹿角市
福島県:南会津郡下郷町、河沼郡柳津町、石川郡古殿町
群馬県:吾妻郡嬬恋村、利根郡片品村
富山県:下新川郡朝日町
長野県:南佐久郡小海町、下水内郡栄村
熊本県:阿蘇郡小国町、上益城郡山都町、球磨郡水上村、球磨郡相良村
大分県:玖珠郡九重町
鹿児島県:出水郡長島町、肝属郡南大隅町

この一覧を見ればすぐわかるように、いわゆる田舎の町村が大半を占めている。一般にはこうした地域は人口減少と高齢化で消滅の危機に瀕しているとされる。永続地帯28市町村の平均人口規模は1万人未満と少なく、65歳以上の老年人口比率は全国平均を10%ポイント上回る30%(2005年現在)だ。2035年の平均人口規模は37%減の6千人程度になり、老年人口比率は44%で半数近くに迫る。全国平均の人口は13%減、老年人口比率は34%だから、人口減少も高齢化も全国平均を上回るスピードで進む(国立社会保障・人口問題研究所『日本の市区町村別将来推計人口』平成20年12月推計)。こういう数字を見る限りでは、「永続地帯」どころか「消滅地帯」のようだ。

ところが、エネルギーと食糧の自給という観点から見ると、こういう田舎のほうが永続性がある。消滅の危機に瀕しているのは、ヒト、モノ、カネが過度に集中した都会のほうかもしれないのである。白書は指標の役割として「『先進性』に関する認識を変える可能性を持つ」としている。「持続可能性という観点では、都会よりも田舎の方が『先進的』に」なるというわけだ。

田舎のほうが先進的な部分があるし、田舎から新しい経済や社会の仕組みが生まれるかもしれない。グローバル経済は必ずしも人を幸せにしなかった。その反動として、自給や互助の仕組みが注目されている。たとえば経済評論家の内橋克人は、グローバル化に対抗する新たな基幹産業として「FEC自給圏」を提唱している。FECはFoods(食糧)、Energy(エネルギー)、Care(介護)の略だ。自給や互助の分野であれば、田舎にこそ未来へのヒントがある。グローバル経済が行き詰まりを見せている今、「永続地帯」のような逆転の発想はとても重要だ。
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