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ポスト消費社会は地元社会

堤清二さんと上野千鶴子さんとの対談『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書、2008年)に次のようなエピソードがある。セゾングループが解体してゆく90年代のこと、ファミリーマート(1981-98年までセゾングループ事業だった)を売却したときのことだ。堤さんはすでに代表の地位を去っていたが、「責任者の和田君から『ファミリーマートを売ることにしました』という報告を聞いて、『ああ、そうか、僕ならば、百貨店を売ってもコンビニは残すんだが・・・』という私の感想」を述べたという。和田さんはさぞかし呆然としたであろう。

もし堤さんが陣頭指揮して再建していたら、2000年以降、セゾンは百貨店を売り払い、コンビニを中核とする流通グループになっていたわけだ!

堤さんのビジョンの正しさと可能性は次のデータを見るだけでも実感できる。

1.百貨店売上高 (日本百貨店協会)
2002年8兆3446億円
2012年6兆1558億円
2.コンビニ売上高  (日本フランチャイズチェーン協会)
2002年 7兆1152億円
2012年 9兆264億円
3.通販売上高  (日本通信販売協会)
2002年2兆6300億円
2012年5兆4100億円

まず1と2を見ると、この十年で百貨店売上高は8兆円から6兆円へ減少、コンビニ売上高は7兆円から9兆円に伸び、逆転している。前掲の本の中で、堤さんは「流通小売業はその地域、その地域に住んでいる人に向かい合うという地場産業です」「コンビニは地域と消費者を密接に繋ぐ気軽な店舗ですから、これからさらに伸びていくと認識しています。」など、地元をキーワードにこれからの流通小売業を展望しているように思う。

もちろん、今のままのコンビニでは限界がある。コンビニの商品やサービスは徹底的に標準化されていて、だから採算がとれる。しかし本当に地元のニーズにこたえようとすれば、地元カスタマイズもほしい。採算がとれて、しかも地元に密着したサービスの開発が必要だ。高齢化が進む中で、よろず相談サービス窓口機能などできるとうれしい。

次に1と3を見よう。通販売上高が5兆円に達し百貨店の6兆円に肉迫している。ここも逆転は近いようだ。今年、流通小売業のニュースで一番印象に残ったのは、セブンイレブンが通販のニッセンを傘下におさめたという話だ。コンビニは狭い店舗内の効率性を追求してきた業態だ。一方、ネット通販は無限に近い在庫をローコストでかかえることができるので、ニッチな商品もロングテールとして商売できる。この二つの融合からどんな新しい業態が誕生するだろう。考えただけでワクワクするではないか。

堤さんが80年代に経営理念とした生活総合産業は本来、百貨店ではなくコンビニ中心に実現するのかもしれない。稀有の経営者堤さんは今年2013年11月に亡くなった。合掌。
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おいしい生活

今年(2013年)の10月と11月、元『広告批評』編集長の天野祐吉さん、元セゾングループ代表で詩人・小説家でもあった堤清二さんが相次ぎ亡くなった(※注)。私にとって忘れられないお二人だ。お会いしたことはないし、私淑していたわけでもない。しかし、1970-80年代という時代を思うとき、欠かせない存在と感じられるのである。それは、自分にとっての思春期から青年期にかけての時代でもあった。

堤さんは1955年に西武百貨店の取締役店長になり、1964年に父親の康次郎氏を亡くしてから名実ともにトップになった。しかし西武百貨店が本当に存在感を増していくのは、実は石油ショック後の70年代以降だ。

よく知られているように、日本経済は戦後、3段階をへて今日に至っている。

実質GDPの年平均成長率
1956-1973年度平均:9.1%(高度成長期)
1974-1990年度平均:4.2%(低成長~バブル)
1991-2011年度平均:0.8%(失われた20年)

この数字を見れば、70年代が戦後史の大きな転換点であったことがわかる。それは「モノがなかなか売れない」と言われ始めた時代、言い方を変えれば、家電や自動車といった基本的な「モノ」への需要が飽和していく時代であった。そんななかで、西武百貨店やパルコはライフスタイルやファッションという「コト」を中心に据え、人気を高めていく。

その人気上昇に、広告は大きな役割を果たした。作れば売れるという高度成長期が終わると、広告には、商品説明よりも消費者を誘う高い作品性が求められるようになる。そんな70年代末、正確には1979年、大手広告代理店の博報堂を辞めた天野さんは『広告批評』を創刊した。

天野さんの遺作となった『成長から成熟へ』(光文社新書)を最近読んで、天野さんが西武百貨店のキャッチコピー「おいしい生活」(1982~83年)をとても重視されているのを知った。時代転換のシンボルとして捉えていたのである。「おいしい生活」は「じぶん、再発見(1980年)」「不思議、大好き(1981年)」に続き糸井重里が西武百貨店のために作ったコピーだ。ウディ・アレンの何だかすこし情けない表情とともに記憶に残っている人は多いだろう。糸井さんの作品としても、西武百貨店のコピーとしても最高傑作のひとつであろう。1980年前後は、セゾングループのクリエイティブなエネルギーが絶頂に達した時期だったのかもしれない。西友のオリジナルブランド「無印良品」が立ち上がったのも1980年だ。

「おいしい」は皮膚感覚の判断で、しかも何をおいしいと思うかは人によって全く異なる。天野さんによれば「おいしい生活」は、高度成長期に目指された「豊かな生活」に代わる価値観の提示だった。なるほど、「豊かさ」はGDPなど一律なものさしで測ることができる。「おいしさ」は主観的要素が強いのでそうはいかない。昨今話題の「幸福度」に近い概念かもしれない。

私は映画が好きだったから、当時、「おいしい生活」で最初に連想したのは、フェリーニの「甘い生活」だった。しかし、「酸いも甘いもかみ分けた」とう表現があるように、甘いだけがおいしさではない。酸いおいしさ、苦みのあるおいしさだってある。となると、「おいしさ」は「幸福度」より深みのある概念にも思えてくる。

天野さんは、1993年に宮沢内閣の打ち出した「生活大国」にも注目し、「広告批評」でもとりあげた。これは天野さんにとっては「おいしい生活」の延長にある(べき)キャッチコピーだった。事実、「経済大国から生活大国へ」とも言われたのであり、なるほど「豊かな生活からおいしい生活へ」とパラレルなのである。

残念ながら、短命だった宮沢内閣もろとも、「生活大国」はいつの間にか消えてしまった。バブル崩壊後の90年代、「おいしい生活」を唱えたセゾングループも崩壊していく。結局、戦後史の第三ステージの90~00年代は「失われた20年」と呼ばれた。

いま、戦後史の第四のステージを迎えようとしているとするなら、私たちは、どんな国になろうとしているのだろうか。「おいしい生活」というコピーに込められた「思い」は見直すに値するものだと思う。

※『広告批評』関係では、2代目編集長の島森路子さんも2013年春に亡くなっている。

地元の時代のスマイルカーブ

昨年、マンションのお風呂の改装をした。業者をどこにしようかと考えて、最初に思い浮かんだのは、マンションデベロッパーの子会社だった。しかし結局、選んだのは地元の小さな工務店だった。その工務店とつきあいがあったわけではないが、地元の人間なら、地元で下手を打ち、悪い噂を立てられれば生きていけない。だから一生懸命いい仕事をしてくれるだろうという期待感である。

大手の会社で、どこに住んでいるのかわからないサラリーマン営業マンに「私があなたの担当者です」と言われても、信頼感はわかない。もちろん彼(彼女)だって、お客の満足を得られず、クレームが入ればただではすまない。しかし最悪の場合でも、担当を外されるだけだろう。失敗したら商売の基盤を丸ごと失うかもしれないといった覚悟はないだろう。

そんなわけで地元の小さな工務店に頼み、結果は満足であった。そこで、この年末にはトイレの改装を頼むことにした。あと、水回りで残っているのはキッチンの改装で、これがいちばんお金がかかるだろう。もしやるとしたら、やはりこの工務店が第一候補になると思う。

住宅産業のメインテーマは「新築」から「リフォーム(改装)」に移りつつある。現在、ハウスメーカーや量販店がリフォーム需要に応えようと努力しているようだが、なかなかうまくいかないという話も聞く。カスタマイズ志向の強いリフォーム案件と、大量生産・大量消費で成功した企業のスタイルがマッチしないのかもしれない。

一方、パナソニックも系列店を活用して住宅設備を中心とするリフォーム市場をねらっているという。私はハウスメーカーや大手量販店に比べれば、系列店のほうが有利だと思う。系列店とは、看板と商品は大企業に依存しているけれども、サービスしている人間は地元の商店街などの地元の人だからだ。

サービス業ではかねてより「顧客志向」が重要だとされてきたが、これからの時代は、プラスして「地元志向」が重要になってくると思う。リフォーム市場に限らず、生活サービス関連市場全般にわたり、CS戦略ならぬGMT(※注)戦略の重要性が高まる。

その理由は人口動態から示すことができる。以下の表を見ていただきたい。

年齢別人口の推移
・・・・・・・・・・・・・・1950年・1995年・2030年(予測)
生産年齢人口  60%・・・・・69%・・・・・58%
その他人口    40%・・・・・30%・・・・・42%
(年少人口)   (35%)・・・・・(16%)・・・・・(10%)
(高齢人口)   (5%)・・・・・・(15%)・・・・・(32%)

一般的にこの表は、2行目の生産年齢人口(15~64歳)割合が1995年のピークを境に減っていく、つまり現役の働き手が減っていくので日本は大変だという説明に使われる。しかし、当たり前ではあるが、3行目の「その他人口(年少人口+高齢人口)」を見れば、95年をボトムとして上がっていく。一度下がってまた上がっていくスマイルカーブを描く。千葉大学の広井先生は、「年少人口+高齢人口」は、その主たる活動範囲が地域、地元であることに注目し、これからは地域の時代だと述べておられる。ある意味では、高度成長期以前の定常的な社会に戻ろうとしているというわけだ。

もちろん、まったく元通りに戻るのではない。スマイルカーブの左端の「その他人口」は年少人口が大半を占めるが、右端では高齢人口が大半を占める。また、居住地分布が全く異なる。以下に示すように、都会人口比率は一様に増え続ける。高度成長期以前の地元はほとんど田舎と言ってもよかったが、いまや大都市圏を地元とする人が多数派だ。

地域別人口の推移
・・・・・・・・・・・・・・1950年・1995年・2030年(予測)
3大都市圏    35%・・・・・49%・・・・・53%
そのほか      65%・・・・・51%・・・・・47%
全国        100%・・・・・100%・・・・・100%

こうした変化はあるものの、「地元」は私たちのライフスタイルとマーケティングを考える上で必須のキーワードであると思う。

※注:GMTはもちろん、平成25年度前期連続テレビ小説「あまちゃん」に登場したアイドルグループの名称で、「地元」のもじり。「あまちゃん」での「地元」は東北地方だったが、ここでは、あえてそれとは異なる「地元」コンセプトを提唱した。

健康と幸福の第四次元

国連機関であるWHOが「健康とは何か」という定義にスピリチュアルな要素をとりいれようとしていることを最近知った。
http://www.medizin-ethik.ch/publik/spirituality_definition_health.htm

もともと、WHOが1946年に定めた健康概念は以下のようなものだった。

Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of the disease or infirmity
(健康とは、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない)

これはこれで、健康を単に「身体が病気でないこと」という消極的定義からポジティブな定義に拡張した画期的定義だと思う。個人的には、体、心の次に、体と心をとりまく社会という三番目の次元を挙げている点が興味深い。

ところが、次の新しい定義がWHO内で1984年に提案され、採用はされなかったものの、議論は続いているようだ。physical, mental and socialに、spiritual が加わったのである。

Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity
(健康とは身体的・精神的・スピリチュアル・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない)

spiritualは日本語では「霊的」と訳すのが普通のようだが、私の考えているイメージとはちょっとずれるので、あえて訳さずに示した。人間存在には、体、心、社会以外に、生命・自然・宇宙の一員という四番目の次元があるのではないだろうか。それが私の考えるスピリチュアルな領域だ。

ちなみにこの段階でのWHOのスピリチュアルの定義は、次の通りである。

The spiritual dimension is understood to imply a phenomenon that is not material in nature, but belongs to the realm of ideas, beliefs, values and ethics that have arisen in the minds and conscience of human beings,particularly ennobling ideas.
(スピリチュアルな次元とは、物質的な現象とは全く違っており、心の中に湧き上がる理念、信念、価値、倫理の王国に属する現象、そして人間存在、とりわけ高尚な理念にかかわる良心に属する現象を含意するものと理解される)

これを見ると、スピリチュアルなものは、arisen in the minds、つまり飽くまで「人間の心の中に湧き上がるもの」としていて、それが客観的に存在するものなのかどうかという判断は留保しているように見える。この程度なら、おだやかな定義であり、近い将来に容認されるのではという気がする。

なお、健康の定義
Health is a state of complete physical, mental and social well-being
で用いられているwell-beingを先ほどは「良い状態」と訳したが、これは「幸福」と訳すこともできる。つまり、「健康(Health)とは、体、心、スピリット、社会が幸福(well-being)な状態のことである」と訳せるわけだ。

体や心の健康(幸福)には、人類には相当な英知の積み重ねがあると思う。一方、社会の健康(幸福)への取り組みの本格化は20世紀後半以降だし、スピリットの健康(幸福)に至っては21世紀の課題と言えそうだ。
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