スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

マイルドヤンキーのマイルドな幸せ

マーケティング・アナリストの原田曜平さんが「マイルドヤンキー」という概念 を提唱している。ボンタン穿いて髪はリーゼントというような かつてのヤンキーは絶滅寸前だという。マイルドヤンキーは、郊 外や地方都市 に住む見た目はフツーの若者である。ただし彼らは先端的なオシャレやIT化・ グローバル化とかには興味がない。オシャレなレストラン より普段着で行ける イオンモールがいい。華やかな都会より地元がいい。ずっと地元で暮らしたい。 所得は低いが消費意欲は高く、自動車やバイク、 酒、タバコ、パチンコなどに 興味があり、カネを使う。仲間愛、家族愛が強い、などなど。(ウイキペディア及び関連リンク記事による)

yanki2.jpg

なるほどと腑に落ちるところが多々あった。以下ではマイルドヤンキーの起源と時代的な意味を私なりに考えてみたい。

変遷する「不良青年」の姿

昔から優等生人生とは異なるヤンキー的人生というのがあった。やや 図式的に対比させれば、優等生人生の人生観は「上昇志向・都会志向」 だ。学 校生活にうまく適応し、進学や就職で都会に出る。職種はホワイトカラー、そし て結婚は遅い。これに対してヤンキー人生は「水平志向・地元志 向」と言える だろう。学校生活に適応できなくて、過激な場合は反社会的・暴力的になる。地 元で就職し、職人的仕事や客商売につくことが多く、結婚 も出産も早い。

1970年代の不良とかツッパ リとか呼ばれていた若者たちは、かなり反社会的・暴力的なイメージが強かった。時 代とと もに、そうした傾向は薄らいでいき、昨今のマイルドヤンキーに至ったということになる。ヤンキーおよびそこから派生した用語が登場した順番を簡単 に整理すると 以下のようになる。

1970年代 暴走族、ツッパリ、不良
1980年代 ヤンキー、レディース
1990年代 ヤンママ、チーマー、ギャング、ギャル男
2010年代 マイルドヤンキー

転換点になった『木更津キャッツアイ』 と 『下妻物語』

ヤンキーのマイルド化は実際にはゼロ年代(2000年からの10年間)から始まっている現象だと思う。それを象徴する当時の人気ドラマが『木更津キャッツアイ』 (2002年TBS)と 『下妻物語』(2004年映画)ではないだろうか。この二つのドラマは、1980年代のトレンディドラマと違って舞台もお話も反都会的なところがうけたのである。舞台になっている千葉県木更津と茨城県下妻はいずれも関東の地方都市。地元の友人の絆を主題にしたコミカルなドラマで、都会は憧 れの 対象ではあっても住みたいところではない。紆余曲折はありながらも、地元が好 きだ、地元で暮らすのが幸せだという価値観に落ち着く。

『下妻物 語』はヤン キー少女(土屋アンナ)とロリータファッション少女(深田恭子)の友情を描 く。ロリータファッション少女は「田んぼの真ん中にスーパー しかない」よう な地元がいやで、都会に憧れているが、最終的には(チャンスがありながらも) 都会には出ない。ヤンキー少女との地元の絆を選ぶので ある。

一方、『木更津キャッツアイ』は、余命半年と宣告された主人公の若者(岡田准 一)と地元の高校時代からの仲間たちのちょっとおかしな日常を描いて いる。 主人公の若者は一度も東京に出たことがなく、初めて訪れた東京の臨海部で「何 これ!未来都市??」と叫ぶシーンもあった。彼らの場合はいわ ゆるヤンキー ファッションではないが、それだけに今のマイルドヤンキーの先駆者のような気がする。

ちなみに『木更津キャッツアイ』は脚本家クドカン(宮藤官九郎)を有名にした作品でもある。クドカンはこの作品の前の『池袋ウェストゲストパーク』(2000年)ではギャングの若者たちを描いているし、最近の『あまちゃん』(2013年)では、主人公の母親の若い頃を田舎のヤンキー少女に設定している。ヤンキーはクドカンにとって作品創造のインスピレーションの源泉なのだろうか。「地元に帰ろう」というこのドラマのテーマ自体、まちおこしとヤンキーの融合なのかもしれない。

日本人全体が「水平志向・地元志向」に

さてマイルドヤンキーの台頭がゼロ年代半ばくらいだとすれば、彼らは世代的には団塊ジュニア よりは下で、1980年代半ば生まれ以降、新人類ジュニア世代に近 い。経済的に十分に豊かになってからの時代に育っているから、ヤンキー的といっても素直で穏やかな子が多いのだろう。もっとも雇用や将来の出世などの見通しという点では恵まれた時代ではない。しかしそういう面では高望みせず、地元の人間関係を大事にして生きていけば、そこそこに幸せになれる。

こういう水平志向・地元志向な価値観は、マイルドヤンキーに限らず、普通の子やある程度学歴の高い子も含めて現代の若者に共通するものだ思う。内閣府「世界青年意識調査」を見ると、若者の地元志向はとくにゼロ年代から高まっている。2003年から2007年にかけて、「ずっと今の地域に住んでいたい」若者は33.2%から43.5%へ、「いま住んでいる地域が好きだ」という若者は40.6%から52.5%へ増えているのである。

若者だけではない。NHK放送文化研究所の調査では、「身近な人たちと、なごやかな毎日を送る」という生活目標を選択する人が着実に増えており、1973年には30.5%だったのが2003年には41.4%、2008年は45.1%に達した。この数字はずっと増えているのだが、やはりゼロ年代半ばに大きく増えているのが注目される。「身近な人たち」とは、家族や友人、近隣住民などであろう。数理統計研究所の「日本の国民性調査」によれば、「家庭に満足」と答える人の割合は、1978年の54%から2003年の35%まで下がり続けてきたが、2008年には反転上昇、42%になっている。

かつては大人から子どもまで、日本人全体が優等生的な「上昇志向・都会志向」をメジャーな価値観としていたが、今や「水平志向・地元志向」のほうがメジャーになってきたわけだ。

【2014/08/04追記―ハッピー父さんはマイルドヤンキー】
雑誌『プレジデント』2014年8.18号(7/28発売)の特集「年収300万父さんのリッチ経済学」が面白い。とくに前半、原田燿平さんが監修している「ハッピー父さん」の分析が面白い。幸福度は年収に比例するが、一方で、年収1000万円なのに幸福でない人、逆に年収300万円で幸福な人も存在する。そこで前者を「不機嫌父さん」、後者を「ハッピー父さん」として、ハッピー父さんのライフスタイルをあぶりだしている。ハッピー父さんは家族と過ごす時間が長く、地域社会とのつながりもきちんと持っている。要するに、マイルドヤンキーのサラリーマン版なのだ。

スポンサーサイト

アリストテレスの「よく生きる」処方箋

アリストテレスの『二コマコス倫理学』はヨーロッパ文化の中で一番古い「幸福論」と言われる。古代ギリシアの上流階級の子弟を相手にした講義録だから、今の私たちが読んで必ずしも共感できるところばかりではない。しかし、註や解説を頼りにしんぼう強く読んでみると、面白い発見がたくさん出てくる。

allice2.jpg

もともと私がこの本を読んでみようと思ったのは、5、6年前に経営学者の野中郁次郎先生に「フロネシス」という言葉を教わったのがきっかけだった。当時、仕事で野中先生に何回かのインタビューをした。仕掛けたのは日経新聞出版社のHさん、実際の編集やリライトは同僚のK嬢で、私はまあ同席したといった程度であったが、とても楽しい取材であった。

野中先生は、現場の知のあり方を考えていくなかで、アリストテレスの「フロネシス=実践知」とホワイトヘッドの「プロセスこそが現実だ」というコンセプトに注目されたようだ。私は早速『二コマコス倫理学』とともにホワイトヘッドの『過程と実在』を購入した。『過程と実在』のほうはあまりに難解で歯がたたず、今でも書棚で埃をかぶっている。『二コマコス倫理学』のほうは、当時会社で新しく立ち上げたシリーズ書籍の名称に「フロネシス」を採用したこともあり、何とか読み通したわけだ。

その後、私は幸福の問題を扱う心理学や経済学に興味を持ち初め、『二コマコス倫理学』は結局、何回か読み返すことになった。ここでは、現代のポジティブ心理学や行動経済学に通じる洞察として「エウ・ゼーン」「エトス」「フロネシス」の三つをとりあげ、私なりの解釈を書いておくことにする。

エウ・ゼーン―よく生きるとは、楽しく生きること

アリストテレスは幸福(エウダイモニア)を「よく生きている(エウ・ゼーン)」「よくやっている(エウ・プラッティン)」ことだ定義する。今でも英語文脈では幸福を表すのにhappiness以外にwell-beingという言い方をすることがあるが、これはアリストテレスに由来するようだ。

「よく生きる」とはアレテー(徳、卓越性)を楽しんで行うこと、実現させることだとアリストテレスは言う。幸福な人は、楽しんでよいことをする。快楽と善が一致する。たとえば正しいことをしていても本音ではズルしたいと思っている人、親切にしていても実は下心ある人の心は苦しいだろう。そういう人は、本当の意味での正しい人、親切な人とも呼べない。

また、人間のすぐれた能力を磨く上でも、快楽のはたす役割は大きい。学問、芸術、技能、スポーツ、何であれ、楽しんでやっているほど上達する。いやいやすることは上達しない。好きこそ物の上手なれを生きる人が幸福な人だ。このへんの明朗な人生観は、幸福感の高さを人格や能力の向上と結びつけるポジティブ心理学を彷彿させる。

エトス―今からでも遅くない?第二の本性の作り方

さて、こうなると、人生において何を快とし何を苦とするかということが決定的な重みをもつ。どうしたらよいことを好んで選び、楽しんで行うような人間になれるのだろうか。

アリストテレスは、三つの可能性をあげている。「善きひとになるのは、一部のひとびとの考えによれば本性に、他の一部のひとびとによれば習慣づけに、また他の一部のひとたちによれば教えによる。」今風にいえば、遺伝か、生育環境か、教育かということであろうか。何が良いことなのかを教えることはそんなに難しいことではない。難しいのは、自ら 好んで、あたかも本能のおもむくままであるかのように行うことだ。しかしもちろん、人間にそういう本性、本能があるわけではない。アリストテレスの結論は、よき人はよき習慣づけによって作られるというものだ。

習慣づけによって人は、言ってみれば第二の本性を作る。それがアリストテレスの言うエトス(倫理的性状)だ。エトスは本能のように変えられないものではないが、ちょっとやそっとで変わるものではない。たとえば幼い頃に身についた好みや行動パターンは簡単には変わらない。アリストテレス自身、小さい頃の習慣づけがすべてを決めるとか、普通の人は罰則という形でよい行動に導いていくしかないなど、身も蓋もない言い方をしている箇所もある。

しかし一方で、今からでも遅くはない(?)と勇気づけてくれる箇所もあるので、そちらに耳を傾けよう。それはよいエトスが形成されるプロセスを説明しているところだ。人は、よい人間だからよい行いをするのではない、よい行いによってよい人間になる。これは肉体に備わった機能とは全く異なるというのである。「見る」という機能は最初から目に備わっていて、それを使用すればよい。所有しているものを使用するのである。しかしよいエトスは、使用することによって所有することになる。最初は多少無理した行いであっても、繰り返しているうちに習慣となり、やがて悦んで行うようになるというわけだ。

フロネシス―「わかる」と「できる」の間には深い谷間がある

アリストテレスの幸福論でエトスと同時に重要なのがフロネシス(知慮、実践知、知恵)である。いわゆる頭のいい人が、必ずしも人生に有用な判断をできるとは限らない。また一般論をわかっていても、実際の行動に反映できるとは限らない。「よく生きる」ためには、具体的で個別的な判断にすぐれていなければならない。そういう知性の働きがフロネシスだ。単に知っているのではなく、それを実践しうることによって、はじめてフロネシスある人と呼ばれる。

フロネシスに欠けた人の典型が、「わかっちゃいるけどやめられない」人たちだ。人はしばしば、自分の幸福にとって有害だとわかっていながらも、やめられないことがある。飲み過ぎ、食べ過ぎ、喫煙などの悪弊はその典型だろう。性的誘惑に弱いとか、お金に釣られてしまうとかいうこともあろう。腹をたてるのはよくないと知りながらたててしまうなどのこともあろう。悪いと知りながら犯罪を犯してしまう人もいるだろう。

アリストテレスはこのような人たちを、根っからの悪人である「放埓な人」とは区別して「抑制力のない人」と呼ぶ。抑制力のない人は、立派な法制を持ちながらそれを役立てられない国民のようなものだ。一方、根っからの悪人とは、法そのものが劣悪な国のことだ…。幸福を目指しながらしばしばそれに反する行いをしてしまうという人間行動の非合理性への洞察は行動経済学に通じると言えるだろう。

ではフロネシスはどうやって身につけるのだろうか。数学の若い天才はいても政治に若い天才はいない、フロネシスには経験が必要だとアリストテレスは言う。つまり、エトスと同様、フロネシスも実際に判断を重ねるなかで習慣化され、形成されていく知的能力なのであろう。

エトスにしろ、フロネシスにせよ、日々の行いをあきらめずに重ねていけば幸福に近づくことができるとアリステレスは語っているように思える。

戦争をしない国というブランド

私も編集に関与している『フロネシス』の最新号が発売された。今回のテーマは「ジャパン・クオリティ」。かつてジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたような経済の勢いはないとはいえ、日本製品の品質の高さ、繊細さは健在だ。日本の良いところを見つけて伸ばすという発想に立てば、自動車や家電に続く新しい製品・サービスの開拓余地はまだまだあるーーそんな趣旨だ。

20140511.jpg


浮世絵からオタク文化まで、日本の良さはしばしば海外から発見してもらえるよねというわけで、編集にあたっては海外からの評価を軸にした。とくに第二章では、海外の世論調査や各種指標の国際比較を洗い出している。そこで気がついたことを以下に書きたい。『フロネシス』ではビジネスの分野で日本の良さを考えたのだが、以下は政治の分野の話。もちろん個人の見解であることをお断りしておく。

BBC調査で「世界に良い影響を与えている国」はどこかという調査がある(※1)。世界25カ国2万6000人以上対象に個人的評価を聞くアンケートで、評価対象は16カ国とEU。自国評価は除く。アンケートでは「主に良い影響を与えている」「主に悪い影響を与えている」の両方を聞いているので、「良いー悪い」の差分で正味の評価とするという考え方もあるが、ここでは単純に「良い影響」という回答の高さで比較しよう。

過去5年の順位は次の通り。

2013年 1.ドイツ 2.カナダ 3.イギリス 4.日本 5.フランス
2012年 1.日本 2.ドイツ 3.カナダ 4.イギリス 5.中国
2011年 1.ドイツ 2.イギリス 3.カナダ 4.EU 5.日本
2010年 1.ドイツ 2.日本 3.イギリス 4.カナダ 5.フランス
2009年 1.ドイツ 2.カナダ 3.イギリス 4.日本 5.フランス

これでみると、ドイツが圧倒的に高いこと、次いで日本、カナダ、イギリスが高いことがわかる。中国がベスト5に一回顔を出しているが、いわゆる大国のアメリカ、中国、かつての大国のロシアは上位陣には入ってこない。1位・2位はドイツと日本の組み合わせが二回、ドイツとカナダの組み合わせが二回ある。

私が面白いと思ったのは、ドイツと日本の共通点だ。いずれも第二次世界大戦の軍事大国だったが、敗戦後は軍事力ではなく経済力で世界に存在感を示してきた。製品の品質がよい、戦争をしない(紛争に積極的に関与しない)の二点で「世界に良い影響を与えている」というイメージを持たれているのだと思う。逆にアメリカ、中国、ロシアが上位に入らないのは、軍事力のイメージが強いからであろう。

大戦後の日本の平和については、周知のように護憲派と改憲派の対立というのが長らくあった。護憲派は武力放棄を明示した「憲法9条」のおかげだと主張し、改憲派は「日米同盟」あってこその抑止力だという。しかし実際には、両方の組み合わせで日本の平和は守れてきたと思うのである。これはドイツと日本の共通点からみていくと明らかだ。ここは専門家の北海道大学教授の遠藤乾さんの言葉を借りよう。

「米国は米ソ冷戦のさなか、NATO(北大西洋条約機構)を通じて西欧の安全を保障し、東西ドイツを分断したままドイツの軽武装を支えていまし た。これが、ドイツが再び強大化するのを恐れていた周辺国に安心感を与えたのです。東側に対抗する米国にとっても、欧州統合は西欧の効率よい復興 につながる戦略的な利益でした。米国が『憲法9条』と『日米安保』によって日本を軍事的な脅威にせず、東アジアの経済復興を牽引させた構図と似て います。」(朝日新聞2014年5月1日)

大戦後にいったんは武装解除されたドイツと日本は、米ソ対立を背景に1950年代に再武装した。ただしドイツ国防軍も自衛隊も活動範囲は限定されていて、たとえば他国に派兵するなどは思いも及ばないことだった。ところが冷戦終焉で状況が変わった。とくに1991年の湾岸戦争で日本もドイツも派兵しなかったため、「金だけ出して人を出さない」と国外から批判された。以降、PKOなどの形でおそるおそる海外派兵を始めたのである。

このように、戦後日本の平和主義は必ずしも自らの意志と努力だけで作り出したものではない。また、日本には100箇所以上の米軍施設(※2)があって約10万人の米軍関係者(うち家族などを除く軍人は5万人)(※3)がおり、平和主義と言いながら米国の軍事パワーの傘下にあるのは明らかである。自衛隊の予算も国防費として世界で七番目(※4)だ。

それでも、憲法の制約があったために自衛隊の活動は制約され、自衛隊員は一人も戦争で死んでいないし、誰も殺していない。結果的に、日本は戦後の世界の中で戦争をしない、武力行使をしない国として良いイメージを形成してきた。これは長年にわたって蓄積した日本のブランドである。せっかく築いたブランドは大事にすべきではないだろうか。憲法9条も、自衛隊の存在が素直に読み取れる程度には変えたほうがよいと思うが、戦争放棄の文言はブランドのシンボルとして残したほうがよいと思う。

クラウゼビッツの『戦争論』に「戦争は外交の延長だ」という意味のことが書かれている。国の安全保障には、外交交渉というソフトパワーと武力行使というハードパワーの両極がある。えてして安全保障の議論は「攻められたらどうする」という一方の極端だけで議論される。現在の集団的自衛権や憲法改正の議論はその典型であろう。しかし、戦争をしない国というブランドを生かして、そもそも攻められないための工夫することも大事だ。複眼的な思考を忘れると、かえって国益に反すると思うのである。

※1 BBC調査
2013年
2012年
2011年
2010年
2009年
※2 防衛省ホームページ:在日米軍施設・区域別一覧 平成26年1月1日
※3 外務省ホームページ:米軍人等の施設・区域内外居住者の人数について(全国) 平成20年3月31日現在
※4 THE MILITARY BALANCE 2014(THE INTERNATIONAL INSTITUTE FOR STRATEGIC STUDIES )

追記20140709
7月1日、集団的自衛権行使を容認する解釈改憲が「閣議決定」され、メディアにさまざまな論が登場した。しかしこのテーマについて私の言いたいこと(言えること)は本文に尽きるので、特に加えたいコメントはない。ただ、第二次大戦の敗戦国という文脈では日独伊三国同盟の一角、イタリアについても触れるべきだったと後で気が付いたので補足しておきたい。大戦後、イタリアはイタリア共和国憲法11条に「戦争放棄」を定めた。ただし、歴代内閣は人道的介入や復興支援を理由に他国への派兵を繰り返してきたという(20140624朝日新聞)。BBC調査の選択肢にイタリアは含まれていない。もし含まれていたら、ドイツや日本と同程度かそれ以上の好感度を得ていたのではないだろうか。大戦後のイタリアは、食や芸術の国のイメージのほうが強いと思う。

追記20140815
日本の自衛隊員と違い、ドイツ、イタリアでは第二次大戦後も域外派遣で兵士が死んでいる。その追悼はどうなっているのだろうと思っていたが、ドイツ、イタリアの追悼施設の状況を紹介した朝日新聞2014年8月15日9面記事に触れられていたのでメモしておく。ドイツは国立中央追悼施設「ノイエ・ワッヘ」に、第一次・ニ次大戦で死んだ兵士(ナチス幹部除く)、民間人、ユダヤ人など虐殺された被害者を慰霊する。90年代、北大西洋条約機構の域外派遣に踏み出し、アフガニスタンでは昨秋の撤退までに55人が死亡。2009年、国防省敷地内に新たな追悼施設が造られた。イタリアはビットリオ・エマヌエーレ2世記念堂が第一次対戦以降、無名戦士を悼む施設に。第二次大戦後、イラクなど異国で死亡した兵士もここで弔われる。2003年のイラク戦争では33人死亡。

世界の高齢化で「人的資本」の時代が来る

英誌『The Economist』の2014年4月26日号が世界の高齢化を特集していた。表紙にはベンチに座る高齢夫婦のうしろ姿、そしてうす暗い色調の空に「A billion shades of grey(10億人の灰色の影)」というキャッチ。

高齢化が一国に及ぼす影響の議論はよく目にする。しかし世界的な高齢化が世界の経済や社会にどんな影響を及ぼすのかという議論はまだあまりされていないように思う。そういう意味で新鮮だったので概要を紹介し、最後に簡単な私見を述べたい。

まずは世界の人口動態の予測から。20世紀に世界の人口は2倍になった。今世紀、人口の伸びは抑制されつつあるが、65歳以上人口は今後25年で2倍になる見込みだ。国連の推計によれば、現在、65歳以上人口は約6億人。総人口に対する比率は約8%で数十年前と大差ない。ところが2035年には11億人以上、比率も13%になる。

老年人口依存率(25歳〜64歳人口に対する65歳以上人口の比率)は、さらに速く上昇する。2010年には100人に対し16人、これは1980年と大差ないのだが、2035年には26人に上昇する。よく知られているように富裕国ほど高齢化は進んでおり、日本は43人から69人、ドイツは38人から66人、相対的には出生率の高いアメリカでさえ、70%以上上がって44人に増える。新興国も実は同様だ。中国は15人から36人と二倍。ラテンアメリカは14人から27人に増える。大いなる例外は南アジアとアフリカで出生率が依然として高い。しかしそれも全体の傾向を変えることはできない。新興国全体では2035年には今の二倍の22人になる。

20140502.jpg

人口動態が経済に影響を与えるチャネルには、主に1)労働力人口の変化、2)生産性の変化、3)貯蓄パターンの変化の三つがある。『The Economist』はここで、高度な教育を受けた高齢者とそうでない高齢者という区別に注目する。これはこの記事のいちばん重要なポイントだと思う。

一点目の労働力人口の減少は、働く高齢者が増えればある程度くいとめることができる。ちなみに20世紀末にはこういう問題の影響は軽微だった。43の富裕国を対象にした分析によれば、1965年から2005年にかけて、平均的な正式退職年齢は6か月も上がっていないのに平均寿命は9歳伸びている。しかし世紀をまたいで状況は変わった。今や65歳以上アメリカ人のほぼ20%が働いている。その割合は2000年には13%だった。

なぜ働く高齢者が増えたのか、最も重要なファクターとして登場するのが教育なのである。高い教育を受けた高齢者ほど長く働く傾向にある。アメリカでは、62歳から74歳で、高卒は32%しか働いていないのに対して、専門職学位の人は65%が働いている。ヨーロッパでも同様だ。スキルの低い労働者は年を取るに連れてつらくなるタイプの労働が多く、引退が魅力的だ。一方、より高いスキルをもった労働者は、報酬も高いし、働き続けるインセンティブがある。彼らはまた平均的により健康だし寿命が長い。

もっとも、60代以上で働いている人の割合はいずれにせよ若い世代よりは低い。つまり高齢者の労働参加率が上がっても労働力人口全体の成長にはならない。そこで第二に、生産性をどこまで上げられるかの問題になる。残念ながら、ほとんどの肉体能力および大半の認知能力は年齢と共に落ちる。一方、どの年齢でもより高い教育はより高い生産性に結びつく。教育程度の高い高齢者の成長は、労働力人口の縮小を打ち消すだろう。

これは先進国にはうれしいニュースだが低開発国では事情が違う。たとえば中国では50から64歳の労働者の半数近くは満足な初等教育すら受けていない。これらのスキルのない人たちが老いれば生産性は大きく落ちこむ可能性がある。50歳以上の人の認知能力(認知適合依存度cognition-adjusted dependency ratio)を富裕国と新興国の両方で調査した結果によれば、中国よりも北部ヨーロッパのほうが成績がよいし、インドよりアメリカのほうが成績がよい。

こうしてスキルと教育がいかに長くいかに良好に働くかを決めるとしたら、第三のチャネル、貯蓄にも大きな影響がありそうだ。アメリカの男性の収入でみると、教育程度の高いベビーブーマーが60台になった2000年以来、60ー74歳の収入が全体に占める比率が7.3%から12.7%へ上がった。彼らの多くは、おそらく生涯の終わりまでに引き出す以上に貯蓄するだろう。

先進国で貯蓄がそんなに落ちないとすれば、もし生産的な投資機会が見つかれば世界経済は長期成長の軌道にのる可能性がある。その機会のある場所は原則的に二つ、一つは先進国経済の急速なイノベーション。もうひとつは、より若くより貧しい新興国経済の早い成長だ。しかしいずれも見通しは厳しい。

成功した新興国の多くはいま、外貨に依存し過ぎることに慎重になっているし、その次の台頭が期待されている南アジアやアフリカの経済は、資本の巨大なフローを吸収するにはまだ小さすぎる。

一方先進国では、とくにコンピューターテクノロジーについて明確なイノベーションがあるにもかかわらず、生産性の向上も成長も投資もゆるいテンポだ。その背景には構造的変化がある。資本財価格、とくにコンピュータ制御を伴う資本財の価格は大幅に低下している。今日のイノベーションは製造業時代に比べればより少ない投資額ですむのである。高齢者の消費変化もある。高齢になると、住宅のようなヘビーな投資を要求するものを買わない。ヘルスケアや旅行のような多くのサービスも巨額の投資を伴わない。

こうして考えられる未来の姿は、より低い成長、過度の貯蓄、そして非常に低い利子率だ。その中で、スキルのある高齢者が増える一方、すべての世代にわたりスキルの低い人の立場は悪くなっていく。教育程度の低い仕事のない若者が貧しいまま社会の底辺で仕え、スキルの高い高齢者になるチャンスは訪れない…。

以上が概要である。最後は暗い結論で表紙カバーのイメージを裏切らないわけだが、このへんはシナリオ次第のように思う。たしかに、20世紀的な経済成長を前提にする限り、成長率の鈍化と格差の固定化といったシナリオになってしまうかもしれない。

しかし、これは見方を変えれば、21世紀的な経済成長への大転換を象徴する事態かもしれないのである。とくに機械への投資が規模的にも収益率の点でも小さくなっていくということ、一方、高い教育によって人間は高齢化しても生産性を上げることができるということを結びつけて考えると、魅力的な未来シナリオを描けそうな気がする。活躍するのは先進国の高齢者だけではない。記事では新興国・途上国の高齢者は高い教育を受けていないと切り捨てていたが、人間は何歳になっても再教育できるかもしれないではないか。人間への投資を中心とする新しい経済だ。

経済が変われば経済学も変わるだろう。たとえば、東大社会科学研究所の大瀧雅之氏の「人的資本のq」(岩波新書『平成不況の本質』)などは新しい経済学の萌芽を感じさせてくれる。

経済学には、「トービンのq」という指標がある。これは経営資源を機械設備などの物的資本のかたまりとして評価したときの価値とその企業の株価総額の比である。

  トービンのq=合理的株価総額÷資本の置換費用

これに対して、「人的資本のq」では、企業は社員同士のチームワークで機能するので、機械設備はむしろ補助的なものだとする。株主主権ではなく従業員主権の前提に立つわけだ。すると、株価の計算では「経費」だった実質賃金の大きさが「目的」として評価されるというちょっと面白いことになるのである。

 人的資本のq=熟練労働の賃金総額÷労働の置換費用

この考え方をマクロ経済に応用するとどうなるのかということがとても興味深い。たとえば設備投資ではなく労働分配率の高さが成長要因になるとかいう話になると(従来の常識とは正反対で)楽しいのだが、素人の思いつきを書きつけるのは控えよう。「2035年の経済学」が待たれる。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。