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ヤスパース先生の「本当の世界史」

母親が歴史好きだったので、私も妹も小さい頃から歴史が好きだった。ところが私の子供も妹の子供もあまり歴史が好きではない。なぜだろうと話し合っているうちに、実は学校で教わる歴史は私たちも必ずしも好きではなかったこと、とくに世界史はわかりにくかったという結論に至った。

学校の世界史の教科書は、四大文明、古代ギリシア・ローマ、ルネサンス、宗教改革、産業革命などの合間に、イスラムや中国の話がはさまっ てくる。何だかいろんな話が出てくるのだが、一貫した流れが見えない。世界史というよりも世界各地域の歴史なのだ。それも西洋とキリスト教に偏った・・・。

世界史の枢軸時代

そこへゆくと、ドイツの哲学者ヤスパースが書いた『世界史の起源と目標』(1949年)は、本当の「世界史」という感じがする。ヤスパース先生なら白熱教室流の新鮮な世界史を講義してくれたのではないだろうか。分厚い本だが、ここで提案されている世界史の図式はきわめてシンプルだ。

1.火と道具の使用(はっきりしないが数百万年前)
2.枢軸時代(紀元前500年頃)
3.科学技術革命(17〜18世紀)
4.第二の枢軸時代(未来)

ヤスパース世界史の中ではルネサンスも宗教改革も世界史的事件ではない。実に痛快爽快なシンプルさである。しかも、1はどちらかといえば考古学の領域、4は未来学の領域であろうから、世界史として学ぶべき真の事件は2と3だけということになる。

「枢軸時代」はヤスパース独自の用語である。紀元前500年頃、800年から200年の間に、驚くべき精神的革命が世界各地で集中的に起こった。西洋人が精神的革命の起源を考えるとキリスト教の誕生になる。しかしそれは西洋人以外の民族にとってそれは実はローカルな出来事だ。キリスト教は世界史的に見ればユダヤ教の一分派に過ぎない。紀元前500年頃の以下の精神的革命こそ世界史の軸なのである。

中国では孔子、老子が生まれ、墨子、荘子、列子など中国哲学のあらゆる方向が発生した。インドではウパニシャッドが発生し、ブッダが生まれ、懐疑論、唯物論、詭弁術から虚無主義に至るまで、やはり哲学のあらゆる可能性が展開された。イランではゾロアスター教が現れた。パレスチナでは、エリア、イザヤ、エレミアをへて第二イザヤに至る旧約聖書の予言者たちが出現した。ギリシアでは、詩人ホメロスや哲学者たち(パルメニデス、ヘラクレイトス、プラトンなど)、さらに悲劇詩人たち、歴史家ツキディデス、自然科学者アルキメデスなどが現れた。

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世界史の勉強では普通、四大文明を文明の発祥とする。しかし古代文明の象徴とされるピラミッドなどの巨大建造物は、現代に生きる私たちから見ると、決して親しみやすい存在でも理解しやすい存在でもない。当時のファラオの人生観や喜怒哀楽を想像するのは難しいだろう。

これに対して、枢軸時代の思想は、現代の私たちまでずっと地続きだと感じることができる。どういう時代のどんな民族の人が見ても理解できる普遍性がある。実際、ブッダと孔子とプラトンは互いに理解しあえただろう。ヤスパースの言葉を借りればこの枢軸時代に「われわれが今日に至るまで、そのような人間として生きてきたところのその人間が発生したのである」。

さて、ヤスパースの世界史で次の節目になるのが、科学技術革命だ。科学技術は17世紀のヨーロッパに始まり、現代に至るまで長足の進歩をとげている。ヤスパースによれば、これに類似しているのは、「火と道具の使用」が始まった時代だという。

火と道具の使用がいつ頃どのように始まったかはあまりはっきりしない。人間の生活を動物的なものから決定的に区別し、人間生活の基礎をすえた発見の時代は数百万年前とも言われている。それからはるかに遅れて枢軸時代がやってきたように、第二の枢軸時代がやってくるとすれば、ずっと未来だろうというわけだ。

グレート・コンバージェンスの時代は来るか

以上がヤスパース世界史の骨子だが、いま生きていたら、世界の生活水準の格差という問題に関心を持ったのではないかと思う。『世界史の起源と目標』でも、科学技術革命以降のヨーロッパとその他地域の格差に注目している。

枢軸時代の精神革命を経験した民族はその後、だいたい同程度の発展をとげてきた。むしろヨーロッパより中国の方が発展度の高い時代もあった。ジョゼフ・ニーダムの中国科学史研究で有名になった話だが、羅針盤、火薬、紙、印刷などの重要な技術革新はまず中国で起きた。ヤスパースは、もし紀元700年ごろに宇宙人が地球に来たら、中国の首都・長安に「地上の精神生活の最高の場所」を発見したであろうと言っている。いずれにせよ、15世紀ごろまでの中国、インド、ヨーロッパの全体的な生活水準はほぼ同程度であった。17世紀の科学革命・18世紀の産業革命によって、ヨーロッパの物質文明の優位は決定的になるのである。

世界の生活水準格差の問題にヤスパースがあまり深入りしなかったのは、執筆当時(1949年ごろ)には、社会主義国の可能性がまだナイーブに信じられていたからであろう。貧富の格差を是正する政治体制の実験にリアリティがあった時代だった。ヤスパースは社会主義について多くの紙面をさいている。残念ながらこの部分は今読むと色あせて見えてしまう。現代では、イデオロギーや政治体制の垣根がなくなり、世界がフラットになることにより、生活水準の格差という問題がむきだしになってきたのである。

18世紀以降の格差拡大は経済史を定量的に分析する経済学者たちの間では「大分岐great divergence)と呼ばれている。「世界のもっとも豊かな国々ともっとも貧しい国々のあいだの、物質的生活水準の格差は、1800年には最大でも4対1程度だったと考えられるのに対し、現在では50対1以上に広がっている。・・・産業革命以降、所得格差は、国の内部では縮小するいっぽう、各国間では拡大してきたのである。」(グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』)

問題は、この格差が将来的に解消するのかどうかだ。この分野を研究するグレゴリー・クラークやオデット・ガロールなどの経済学者は、少なくとも近い将来での格差解消には懐疑的のようだ。一方、最近の新興国の成長から見て、格差は縮小する方向に向かっているという見方もある。たとえばマッキンゼーのレポートは2025年には世界の半数が中間階級的な消費者になると予測している。

大分岐から大収斂(great convergence)の時代へ向かうのか。「私は、人類とは唯一の起源とひとつの目標を有するものである、との根本的信仰に支えられているのである」と書いたヤスパースには見過ごせない大問題になったに違いない。


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従業員を幸福にする経営

パナソニック(旧松下電器)創業者の松下幸之助の名言に「松下電器は人を作る会社です。あわせて電気製品を作っています」というのがある。京セラ創業者の稲盛和夫は「全従業員の物心両面での幸福の追求と人類社会の進歩発展への貢献」を企業目的とした。

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この二人は有名な経営者であるが、従業員の幸福を経営の第一目的にすえて成功した経営者はそれなりにいるようだ。法政大学の坂本光司教授の書いた『日本でいちばん大切にしたい会社』はそうしたタイプの中堅中小企業に注目した本であり、経営の目的を以下の5つに定めている。

1 社員とその家族を幸せにする
2 外注先・下請企業の社員を幸せにする 
3 顧客を幸せにする 
4 地域社会を幸せに、活性化させる 
5 株主を幸せにする

オーソドックスな経営論では企業にとって最も重要なステークホルダーは株主なのだが、上記では順番の最初に従業員が来て、最後が株主になっている点がユニークなわけだ。

坂本教授は「人を幸せにしていれば結果的に業績も上がるはず」と言う。企業は慈善団体ではないし、そもそも利益が出なければ組織自体が持続可能ではない。従業員を幸せにすれば業績が上がるのだろうか。そうだとすれば、それはなぜだろうか。

従業員満足、顧客満足、企業業績

実は経営学では1990年代あたりから「従業員満足、顧客満足、企業業績」というアプローチでこの問題が研究されている。(※1)。たとえばタクシーや美容院、車の販売代理店のように従業員が直接顧客に向き合うサービスでは、従業員満足度と顧客満足度の間に関係がありそうだということが直観的に納得できる。私がこうした研究を最初に知ったのは十数年ほど前で、会社の同僚の阿部淳一さんに教えてもらった。彼自身がそうした解析を行う国内では先駆的なコンサルタントだった。「社員が喜べばお客さんも喜んで経営者も喜ぶ、いい話だねー」「そうでしょ。まあ、データで検証するには意外に難しいんだけどね」などという会話をしたのを覚えている。

実際、従業員満足と企業業績は相関していないという否定的な研究結果もあるようだ。また、相関関係はあっても因果関係は逆だという研究結果もある。つまり、従業員満足を高めると業績がよくなるのではなく、業績がよくなると従業員満足が高まるというわけだ(※2)。

しかしこれらは「従業員満足→顧客満足→企業業績」という仮説を全否定するものではない。こうした関係が成り立つ場合が多いというだけでも実践的には意味があるのだ。むしろ、どういう場合にどういう経路をへてどの程度成り立つのかという問題のほうが重要だ。

そういうスタンスでの研究では、ヘスケット他によるサービスプロフィットチェーンの図式がよく引用される。もとは1990年代に発表されたものだが、ハーバードビジネスレビューに2008年に再掲されたときは、「サービス業の収益性を高める方法として、シンプル、エレガント、現実的な方法であり、今日まで影響力もつベストセラー」と紹介されている。(※3)

このプロフィトチェーンによれば、サービス業では「内部サービス品質→従業員満足度→従業員の定着、従業員の生産性→外部サービス品質→顧客満足→顧客ロイヤルティー→収益増大、収益性」という連鎖が成り立つ。最後の収益増大は最初の内部サービス品質への再投資になり、以下好循環が形成される。

内部サービス品質は、従業員満足を高めるための施策だから、もしこのプロフィットチェーンが成り立つのであれば、経営にとって最も重要な施策の一つである。ヘスケット他は、「職場設計、職務設計、従業員の選抜と能力開発、顧客に仕えるためのツール」の4つを挙げている。

これはサービス業を対象としたものだが、製造業など他の産業でも似たような図式が成り立つだろう。また、近年では内部サービス品質としてのワークライフバランス(※4)や、一種の組織文化とも言えるエンゲージメント(会社の方向性に対する従業員の自発的な貢献意欲)(※5)の役割も注目されるようになってきた。

満足度から幸福度へ

さて、ここまで「満足」と「幸福」をだいたい同じような意味として書いてきた。多くの幸福度調査は、幸福度と満足度をほぼ同一視している。実際、調査を設計するさいには、何かに対する満足度という形で質問しないと明確な回答を得られない。たとえば職場の人間関係に満足していますか?なら答えられるが、職場の人間関係は幸福ですか?と聞かれてもちょっと困ってしまうだろう。一方、個々の要因の満足度を積み重ねが幸福度なのかといえば、それもちょっと違うと感じてしまうだろう。

おそらく満足度は個々の局面の判断、幸福度はトータルに判断をするときにふだわしいのである。となると、給与や達成感、職場の人間関係といった個々の施策も重要だが、「企業は従業員の人生全体にどんな影響を与えるか?」というトータルな観点からの施策が同じくらい重要だということになる。

人生全体にとっては、仕事と家庭の両立、経済的な豊かさと精神的な豊かさの両立が望ましい。過度な残業を減らし、出産や育児、高齢化などライフサイクルに応じて柔軟な働き方ができれば従業員の幸福度は高まるだろう。また、企業の社会的使命に共感できる従業員にとって職場は自己実現の場になるだろう。

このようにワークライフバランスやエンゲージメントは、従業員の幸福度向上にかかわるトータルな施策と言える。幸福度の高い従業員は、たとえ個々の局面で多少の不満があっても、自発的に生産性の向上に取り組むであろう。会社をよくすることが自分の人生をよくすることと自ずから一致するからである。

※1
清水孝「財務成果,顧客満足度および従業員満足度の関係性に関する検討」
稲垣公男「顧客満足度・従業員満足度・企業業績を高める人材マネジメント」
木戸貴也「従業員満足、顧客満足、企業業績の関係に関する一考察」
※2 従業員満足は本当に企業業績を高めるのか
※3 Putting the Service-Profit Chain to Work by James L. Heskett, Thomas O. Jones, Gary W. Loveman, W. Earl Sasser, Jr., and Leonard A. Schlesinger
※4 姉崎猛「ワーク・ライフ・バランスと企業業績の関係に関するサーベイ」
※5 タワーズワトソン・ホームページ「従業員の持続可能なエンゲージメント(会社への自発的貢献意欲の持続性)が業績に影響」



経済学者による未来のイソップ寓話

イソップの寓話のアリは、腹をすかせたキリギリスに「君は夏中、バイオリンを弾いて歌っていたんだから、これからもそうしたらどうだい」と冷たく突き放す。この寓話の背景には、人類が長い間、生存のための苦しい労働に縛られてきたという歴史がある。しかし、未来はどうだろう。生存のために苦労しなくてよい日が来たら、どうなるだろう。

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ここでは、そんなふうに未来を考えた4人の経済学者を紹介したい。マルクス(1818年- 1883年)、ミル(1806年 - 1873年)、ケインズ(1883年 - 1946年)、ガルブレイス(1908年 - 2006年)の4人だ。

人生を何倍も楽しむ社会ーマルクス

生存の苦労から解放されるという夢が最初に現実味を帯びたのは、産業革命後のイギリスにおいてである。マルクスは19世紀当時の圧倒的な経済的先進国イギリスを分析し、来るべき人間の幸福について考えた。

「ところが、各人がどんな排他的な活動範囲をももつことがなく、どんな任意の部門においてでも己れを陶冶することができる共産主義社会では、社会が全般の生産を規制し、まさにそのことによって私に、今日はこれ、明日はあれをする可能性を与えてくれる。つまり狩人、漁師、牧者または批判者についぞなることなしに、私の気のおもむくままに、朝には狩りをし、昼に魚をとり、夕には家畜を飼い、夕食の後には批判をする可能性である。」
(マルクス&エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』1845-1846年)※1

「朝には狩りをし、昼に魚をとり、夕には家畜を飼い、夕食の後には批判をする」は共産主義社会の理想のライフスタイルを描いた 言葉として有名だ。マルクスは、肉体労働であれ精神労働であれ、労働は本来楽しいものだと考えていたわけだ。気のおもむくままに何種類もの労働をすることは、人生を何倍も楽しむ方法だ。

精神の発展に終わりはないーミル

一方、マルクスと同時代人のミルは、資本主義はいずれ高度なレベルで停滞し、労働の姿は文化、道徳など精神労働中心になっていくと見通していたようだ。

「資本および人口の停止状態 なるものが、必ずしも人間的進歩の停止状態を意味するものでないことは、ほとんど改めて言う必要がないであろう。停止状態においても、あらゆる種 類の精神的文化や道徳的社会的進歩のための余地があるのは従来と変わることがなく、また『人間的技術』を改善する余地の従来と変わることがないで あろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル『経済学原理』1848年)※2

ミルはマルクスのような革命論には与しなかったが、労働者階級に同情心を持っていたし、資本主義が永遠に続くシステムだとも考えていなかった。両者とも、巨大な産業パワーをうまく コントロールすれば、すばらしい未来が拓けるというビジョンを描いた点では共通する。ちなみに千葉大・広井良典先生の「定常社会論」はミルの ビジョンがヒントになっている。

1930年に予言した2030年の人類ーケインズ

さて、19世紀に繁栄を極めた大英帝国に代わり、20世紀にはアメリカが台頭してくる。20世紀初頭のア メリカは、フォードの大量生産・大量消費システムの確立など、産業システムの先進性で次第に優位性を獲得していく。イギリスは相変わらず経済大国だったが、とくに第一次大戦後には徐々にアメリカに覇権を譲って行くことになる。

そんな端境期に、ケインズは活躍した。イギ リス人のケインズによる「有効需要の理論」は、アメリカ大恐慌後のニューディール政策に結実した。以下に引用する文章は、ケインズが1930年の時点で100年後の 2030年の世界を見通したものだ。

「結論として、大きな戦争がなく、人口の増加がなければ、百年以内に経済的な問題が解決するか、少なくとも近く解決するとみられるようになるとい える。これは将来を見通すなら、経済の問題が人類にとって永遠の問題ではないことを意味する。・・・したがって、天地創造以来はじめて、人類はま ともな問題、永遠の問題に直面することになる。切迫した経済的な必要から自由になった状態をいかに使い、科学と複利の力で今後に獲得できるはずの 余暇をいかに使って、賢明に、快適に、裕福に暮らしていくべきなのかという問題である。」
(ケインズ「孫の世代の経済的可能性」1930年/『説得論集』1931年所収)※3

ケインズのこの予言の後、残念ながら「大きな戦争」(第二次世界大戦)が起きたし、世界人口はさらに3倍に増えたが、それにもかかわらず世界経済は成長し続けた。現在、先進国では 生存にかかわる経済的な問題からはほぼ解放されているし、新興国がこれに続いている。2030年ごろまでには、現在の途上国を含めて、人類の半分 くらいがそういう所得水準に達するという見方もある。

もちろん、日々の暮らしにあくせくしてきた人が、急に自由な時間を与えられても最初は当惑するであろう。ここには引用しなかったが、ケインズはそうした当惑も見 越していた。現代人の直面している「幸福とは何か?」という問題がここに発生する。

仕事を楽しむ有閑階級ーガルブレイス

最後に、1950年代のアメリカを背景にしたガルブレイスのビジョンを紹介しよう。。「黄金の50年代」などと言われるように、1950年代のアメリカ は物質文明の頂点を極めたかのような時代だった。ガルブレイスは、苦痛としての労働をなくすことは「空想ではない」と言い切る。そして生存のためでなく、自らの楽しみのために働く新しい階級が台頭していると主張する。リチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラス」を予言したようなものだ。

「有閑階級はほとんどいつの時代のどの社会にも存在した。有閑階級とは労働を免除された人びとの階級 である。・・・しかし、この有閑階級に代わって、別のもっと大きい階級が現われていることは、ほとんど気づかれていない。昔は、仕事といえば、苦 痛、疲労、その他の精神的または肉体的な不快さというひびきをもっていたが、この新しい階級にとって仕事はそのようなひびきを全然もっていな い。」
(ガルブレイス『ゆたかな社会』1958)※4

経済学にも人類の長い歴史を背景にした「寓話」がある。それは「消費(キリギリス)は幸福であり、労働(アリ)は苦痛である」というものだ。しかし、苦しい労働の必要がないほど技術や制度が進歩したとき、はじめて本当の人間らしい幸福の探求が始まる。偉大な経済学者たちの予言によれば、そのさい、鍵を握るのは「いかに遊ぶか」より「いかに働くか」ということなのである。

※1 真下信一訳、国民文庫、1978年
※2 末永茂訳、岩波文庫、1961年
※3 山岡洋一訳、日本経済新聞出版社、2010年
※4 鈴木哲太郎訳、岩波現代文庫、2006年

スピリチュアリティーの効能

祈りや瞑想で病気が治る(ことがある)などと言われたら、あなたはどんな反応を示すだろうか。西洋医学に代わる代替医療の話を前回のブログで書いた。大半の代替医療は体に対して物質的に働きかけるというタイプのもので、その限りでは西洋医学の発想と大きな違いはない。化学薬品ではなく健康食や漢方薬を口にいれるにであり、メスを入れるのではなく鍼灸やマッサージをするのである。しかし代替医療にはもう一つのタイプのものがある。祈りや瞑想などの非物質的な方法だ。

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日本統合医療学会(JIM)の米国動向報告(※1)にれば、米国では「祈りによる治癒」に注目が集まっている。CBSニュースの意識調査やタイムズ誌とCNNが共同で行った意識調査では、祈りの効果信じる人の割合は8割程度に達している。

実際、デューク大学医学部の調査報告では、「祈ったり、聖書を読んでいる高齢者は、健康で長生きしている」という結論に至ったという。また別の調査報告によると、6年の調査期間中で祈らない高齢者の方が祈った高齢者に比べて死亡者が約50%も高かったという。NIH(国立衛生学研究所)でも、がんや心臓病といった病気への効果を調査しているというのだ。

祈りと瞑想の科学的研究を背景に

そこでNIHの補完・代替医療センター(NCCAM)のサイトでSpiritualityを検索すると、なるほどたくさんの研究レポートが出てきた。サイトにはハーバード大学(科学史)のアンヌ・ハリントン(Anne Harrington)博士による「Health and Spirituality」という講義のオンラインレクチャーが出ている(※2)。この分野の研究が始まったのはさすがに最近であること、しかし着実に進んでいることが強調されている。

ハリントン博士によれば、20年ほど前と今とでは、この問題に対する市民的な合意が大きく変わったという。20年ほど前には、スピリチュアリティーは究極的にはプライベートな問題、特定の個人またば集団の信念・体験の問題だとされていた。これに対して医学はパブリックな問題だと。

しかし今や違う。祈りや瞑想は、代替医療の一つの形になった。瞑想する修行僧をMRIにかけたり、教会に通うことと禁煙することの健康に対する効果を比較研究したりする時代だ。

そしてこうした研究から、確定的とは言えないまでも、医学的に意味のある知見も得られるようになってきた。教会に通うと免疫力が高まる、瞑想はストレスを軽減し心臓病などの疾患の管理に役立つ、崇高な力への強い忠誠心は脳の生化学的変化をもたらす、などなど。どうやら様々な癒しのプロセスに点火しあるいは加速する役割を果たすらしいのである。

アメリカ文化の真髄「ニューソート」

ところでアメリカにおけるこうした動きは、19世紀以来のアメリカの思想的伝統「ニューソート」を抜きには語れないと思う。ニューソートはアメリカの宗教や治療の実践に大きな影響を与えてきた。『ニューソート その系譜と現代的意義』(マーチン・A・ラーソン著、日本教文社)はニューソートの思想家たちの特徴を20項目あげているが、以下に健康や治療に深く関係する3つの項目を引用しよう。

・神は宇宙全体に、またその中のどの部分にも内在する、偉大で中心的で、かつ非人格的な、力にしてエネルギーである。
・われわれが生活のすべての面で健康、成功、繁栄、幸福、そして普遍的な安寧を最大限に達成するとき、真の宗教の目的は実現される。
・肉体の健康は多くの場合に、心の科学によって達成されうる。この科学の本質は、邪悪な、腐敗した、破壊的で否定的な、信仰、誤り、感情から、心や魂を浄化することにある。

ここには、たとえば実用主義、楽観主義、ポジティブ志向といった、私たちが漠然とアメリカ的と感じている多くの要素が見られて面白い。

ニューソートの源流には、18世紀ヨーロッパのスウェーデンボルグやメスメル、あるいは同じアメリカではエマーソンなどの名前が挙がる。しかし19世紀以降の実際のニューソートの伝道者になると、大衆的な著述家ばかりで代表的な思想家というのがいないようだ。こうした大衆文化性という特徴も含めて、ニューソートは真にアメリカ的な文化と言えるのだろう。

宗教的な治癒のサイエンスは、ポジティブ心理学での幸福のサイエンスと同様、ニューソートから生まれた近年のアメリカ文化の最前線だ。 

※1 第1回日本統合医療学会(JIM)大会、渥美和彦JIM代表講演録(平成13年6月24日
※2 Health and Spirituality(NCCAM)

西洋医学の限界を越える医療戦略

安倍首相が健康・医療分野の目玉として昨年かがげた「日本版NIH」の設立が決まった。NIHは、米国の国立衛生研究所(National Institutes of Health)の略称である。米国の医療分野の研究開発を強力に進めている組織だ。ただ、最近の報道(※1)によると、政府は昨年末あたりから日本版NIHという名称は使わないようにしているらしい。米国NIHは27機関、予算300億ドル(3兆円)、職員数1万8000人という巨大組織で、研究助成だけでなく、自ら独自の研究や臨床試験を行っている。日本版は規模的にも300人体制、準備段階の今年度予算1400億円と米国NIHには遠く及ばない。

米国NIHの懐の深さ

ところで私が米国NIHをすごいなと思うのは、必ずしも組織や予算が大きいからではない。伝統医学や民間療法の分野にも力を入れていると知ったからだ。

米国では、現代西洋医学以外の医学や医療をalternative medicine(代替医学)、compIementary and alternative medicine(CAM)(補完・代替医学)、integrative medicine(統合医学)などと呼ぶ。具体的には「中国医学(中薬療法、鍼灸、指圧、気功)、インド医学、免疫療法(リンパ球療法など)、薬効食品・健康食品(抗酸化食品群、免疫賦活食品、各種予防・補助食品など)、ハーブ療法、アロマセラピー、ビタミン療法、食事療法、精神・心理療法、温泉療法、酸素療法、等々すべて」(日本補完代替医療学会)が含まれる。

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先進国で代替医療に真剣に目を向け始めたのは、おそらく1970年代あたりからだ思う。経済成長に陰りが見え、近代的な価値観への反発が全般的に高まっていった時代だ。

ハーバード大学の調査によれば、1990年の段階ですでに米国成人のうち33.8%(6000万人)が代替医療を利用しており、1997年の調査では利用率が42.1%(8300万人)になった。代替医療といえばかつては非科学的、迷信まがいといったイメージが強かったが、この調査によればむしろ教育レベルの高い人に利用者が多いという。(※2)

実際、西洋医学ではうまく説明できない体調不良、あるいは不治・難治とされる病気が代替医療で治ったり、緩和されたりすることがある。それ自体はべつに不思議なことでも何でもないだろう。西洋医学は多くの成果をあげてきたが、言うまでもなく完璧ではない。古臭いと切り捨ててきた伝統医療や民間療法の中に、西洋医学の限界を補ったり乗り越えたりするヒントがあって当然だ。

こうした利用動向を反映し、あるいは促進するような形でNIH内の体制は強化されていったようだ。まず1992年、米国議会はNIH内に代替医療事務局(OAM)を設立。予算は年々増額され、1998年に 格上げ、NIHの他の機関やセンターと肩を並べるまでになった。また、全米の医学校125校のうち少なくとも75校(60%)で代替医療に関する講義も始まっている。(※3)

日本では市井の賢者が支えてきた

では日本はどうなのか。もともと漢方薬、鍼灸、柔道整復などの東洋医学が保険適用になっている日本は、ある意味では代替医療がよく実践されている国だという見方がある。しかし現代西洋医学の側から代替医療に取り組む動きが本格的に始まったのは、やはり1990年代頃からのようだ。帯津良一さんが中心となりNPO法人日本ホリスティック医学協会が設立されたのが1987年。その後、日本補完医療学会(1990年)、日本統合医療学会(2000年)も設立された。

もし大規模な実態把握や意識調査をすれば、いまや日本での代替医療の利用数や利用ニーズは米国と同じくらい高いのではないだろうか。日本では意欲ある医師、薬剤師をはじめ関係者が草の根的に取り組んでここまできたのだろう。草の根ではあるが実はそのレベルは相当に高いのではないだろうか。

たとえば、たまたま行き当たったのであるが、山口県の村田漢方堂薬局のホームページを見たら、医学にとって科学的とはどういうことかという問題について深い洞察がされている。「構造主義科学論の視点から見ると、中医学には「整体観」という構造主義的な視点が既に確立しているのに比べ、西洋医学においては(ミクロ的にはともかく)、マクロ的には構造主義的な視点が比較的乏しく、このために西洋医学は実際のところ、むしろ「非科学的」であると言われても反駁出来ないのではないだろうか」というのだ(※4)。なるほどと思わず膝をうった。こういう市井の賢者が日本の代替医療を支えているのだろう。

漢方をクールジャパンに

一方、米国のNIHのような公的な機関や大学教育での取り組みは確かに遅れているようだ。何でも米国流がよいとは思わないが、日本の健康・医療戦略でも、代替医療にしっかり目を向けてほしい。昨年閣議決定された「日本再興戦略」(※5)の健康・医療分野の記述では、「食の有する健康増進機能の活用」といったあたりにその片鱗が伺える程度であった。

ただその後、草の根的な動きを後押しする政策の芽も出てはいるようだ。3月に発表された国家戦略特区の神奈川県が重点的に取り組む施策の中には、地元の産官学の要望を受け、小項目レベルではあるが「漢方産業化の促進」が入った。さらに4月に発表された日本経済調査協議会の『救国のヘルスケア4+4策~4つの基本戦略と4つの実行戦略』でも、日本が対外的に売りにできるコンテンツの一つに漢方が挙げられた(※6)。

市井の英知と実践を結集すれば、アジアの先進国日本ならではのこの分野の世界への貢献もあるのではないかと思う。

※1 http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=97331
※2,3 第2回日本代替医療学会学術集会での基調講演(平成11年10月10日)
※4 医学領域における「科学」としての中医学(村田漢方堂薬局)
※5 日本再興戦略
※6 https://medical-logi.suzuyo.co.jp/news-medical/20140430-2.html
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