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アメリカンドリームよりインドのスラム?

『happyーしあわせを探すあなたへ』(2012年アメリカ)という映画をDVDで見た。幸福度研究やポジティブ心理学の研究者へのインタビューと世界各地の取材を中心に作られたもの。NHKスペシャルみたいなものと思えばいいだろう。よくできた教養映画だ。

冒頭、幸福度研究のパイオニア、エド・ディーナーが出てくる。「自分が1981年に幸福度の実証研究を始めたときは誰も注目しなかった。しかし90年代から注目されるようになった」と歴史的な証言。「フロー体験」で有名なミハイ・チクセントミハイも登場する。数年前からこの分野の文献を漁ってきた私には、本でしか知らなかった著者の映像が見れて嬉しいというミーハー的な興味もあった。

この映画は、お金と幸福の関係を問うた映画だとも言えそうだ。全体のイントロになるシーンには、そうした問題意識が鮮明に現れている。登場するのはインドのスラム街の貧しい家族。一家の大黒柱の男は、一日中人力車を引き回している。しかし、くたくたに疲れて帰ってきても、出迎える子供の笑顔を見れば幸せになれる。近隣の住民もみな親切で助け合って生きている。「この人の幸福度 は、アメリカ人の平均的な幸福度と変わりません」というナレーションが続く。

世界経済格差の皮肉な一面

インドのスラムのシーンを見て、私はグレゴリー・クラークの『10万年の世界経済史』を思い出した。映画の脚本家はきっとこれを読んでいたに違いない。産業革命以降に西洋とそれ以外の地域に生じた富の格差(いわゆる「大いなる分岐」)を分析した本で、最後の方の章でインドとアメリカの住宅状況を比較している。

まず、インド。「世界の低開発地域のなかでは比較的発展しているインドなどの国でも、・・・都市に新しく住みついた労働者が、路上生活を送っていることはいまだに珍しくない。そして、公有地や舗道、通勤鉄道沿いなどに建てられた、水道もトイレもない仮設住宅に、何千人もの人々が住んでいる。二00二年のインド全体における人口一人あたりの住居面積は、平均で約七・八平方メートルだった(写真15・4)」

次に、アメリカ。「これに対し、世界でもっとも豊かな大国である米国では、二00一年における人口一人あたりの平均住居面積は約七0平方メートルで、経済力の面では人口の下位五分の一に入る人々ですら、この値は約五二平方メートルに及んでいる。現在、米国の家屋のおよそ八パーセントは約三七0平方メートル以上の広さがあり、こうした家に住む家族の平均人数は二・六人である。このような「マクマンション(写真15・5)」、つまりマクドナルドのようにあちこちに建てられた、チープな雰囲気の大邸宅は、米国の中産階級の生活を一般に象徴するものになっている。」

クラークは最終章の「結論 未知の新世界」で、こうした経済格差が必ずしも幸福度に反映していないという皮肉な事実に触れている。「一八00年以前の社会と同じくらい貧しい現代の国々でも、人々が感じている幸福度は、米国などのきわめて豊かな国々と、平均的にはほとんど変わらない。人口一人あたりの年間所得の水準が二万ドル以上の社会における平均的な幸福度は、この水準が四000ドル以下、つまり狩猟採集社会の水準にある社会の幸福度をわずかに上回るに過ぎない。」

インドのスラムに住む人とアメリカの中産階級の家に住む人との幸福度に大差はないのだ。その対比を示す写真15・4 (インドのスラム化した住宅)と写真15・5(アメリカの中産階級の住宅)は、翻訳本では207ページに出ている。

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映画『happy』の冒頭に登場するインドの男は、まさにこの写真15・4のようなビニールの継ぎ接ぎのようなスラム住宅に住んでいるのである。映画はクラークの問題提起を受けて、お金ではないとしたら何が幸福度を決めているのか?を掘り下げていくわけである。

大いなるつながりの感覚

もちろん、これは貧しい国が貧しいままでよいという意味ではないし、経済的豊かさが幸福と無関係だということでもない。所得と幸福度はある範囲内では明確に関係することが実証されている。お金である程度の幸せは買える(衣食住の基本の安心など)、しかしある程度を越えればお金を使っても幸福は増えないということなのである。幸福度研究は、先進国の人たち向けのものなのだ。

さて、お金でないとしたら何が決め手なのか。幸福度研究ではいろいろなことがわかってきている。映画では、人間の追求する価値には外面的価値(お金、地位、対外的イメージ)と内面的価値(能力発揮、友人、社会貢献)があり、後者を追求する人の方が幸福感が高く、前者を追求する人はかえって不幸になりやすいという研究が紹介されていた。これなどはいろいろな知見をうまく集約した言い方だと思う。

映画の最後に再びエド・ディーナーが登場し、幸福度を高めるには絆やつながりが重要で、人間は決してひとりぼっちではなく、大いなる存在にみなつながっているというスピリチュアルな感覚が大切だと語っていた。先進国の人たちは、経済的豊かさとともに、政治的・社会的な自由を手に入れた。自由や個人主義は幸福の源泉の一つだ。それは政治制度と幸福度の相関研究からも証明されている。しかしこれも程度問題であり、行き過ぎた自由と個人主義は孤立感と疎外感を招き、むしろ不幸の源泉になってしまう。大御所ディーナーが「大いなるつながりの感覚」を力説する姿には感銘を受ける。
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未来都市の課題が変わった

先週の日曜美術館(Eテレ)はラウル・デュフィ(1877〜1953)の特集だった。1937年のパリ万国博覧会でこのデュフィと、 パブロ・ピカソ(1881〜1973)、そして建築家のル・コルビジェ(1887〜 1965年)の3人に興味深い接点が生まれたことが紹介されていた。

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デュフィは1937年のパリ万国博覧会の電気館のために幅60m、高さ10mの大壁画「電気の精」を描く。ここには電気工学を中心とする科学技術、工学を発展させて来た 科学技術者108人の群像が描かれていた。タレス、アリストテレス、アルキメデスという古代ギリシアの哲学者・科学者から始まっているが、あとの100人以上は 17世紀以降の西洋の科学者たち。要するに、近代西洋の科学技術革命を礼賛する絵だ。

一方、同じ万博のスペイン館の壁画としてピカソの「ゲルニカ」が展示された。ナチスの空爆を受けた町ゲルニカを主題に描いた絵だ。科学技術は文明の建設の道具になりえるが、悲惨な破壊と殺戮の道具にもなりえる。奇しくも光と影が同じ博覧会で展示されたわけだ。しかし、この博覧会の新時代館に展示参加したコルビジェの証言によれば、電気館が連日満員の盛況であったのに対し、スペイン館は閑散としていたというのである。

田園都市と輝く都市

以上が番組での3人の紹介のされ方だが、私には、建築家であり都市計画家であったコルビジェがこのエピソードの最後にチョイ役のように登場しているのが何より興味深かった。科学技術革命・産業革命のもたらした影という意味で、近代の都市問題は、戦争問題ほどではないにしても、それに次ぐ大きな影であったと思うからだ。

大工場と交通・通信の発達は、農村から都市への大規模な人口移動を促し、都市に過密・混乱・無秩序をもたらした。当時のロンドンやマンチェスターの悲惨なスラムの様子は、小説家ディケンズの『オリバー・ツイスト』(1837〜39年)や、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)に詳しく描かれている。

20世紀の初頭、こうした都市問題の解決策として二つの見取り図が現れた。それがエベネザ・ハワード(1850〜1928年)の「田園都市」(1898-1902年)とコルビジェの「輝く都市」(1930年頃)だった。両方とも今日に至るまで影響を及ぼしている。

田園都市は後の郊外高級住宅地やニュータウンの元祖になった。日本では戦前の渋沢栄一の田園都市株式会社を継いだ東急グループの多摩田園都市がその影響を受けた代表例だ。輝く都市のほうは、都心部の高層ビル開発の元祖になった。アークヒルズや六本木ヒルズを開発した森ビルの社長は「コルビジェを都市開発のコンセプトの原点としている」と公言しているようだ。

過密による混乱を平面的な再配置で解決しようとしたのが田園都市で、立体的な再配置で解決しようとしたのが「輝く都市」だとも言えるだろう。二つの構想の違いは、社会運動家(ハワード)と建築家(コルビジェ)という出自の違い、世代・時代の多少の違いなどが反映されている。ハワードは鉄道ネットワークを前提にしていたが、コルビジェは飛行機と自家用車を前提に考えた。また、鉄、ガラス、鉄筋コンクリート、エレベーターという最新素材・最新技術の可能性を徹底的に追求した。

しかし結果として狙ったことに大きな違いはない。住居であれ職場であれ、明るい光、新鮮な空気、ふんだんな緑が人間の健康と幸福に不可欠だと考えた点で共通する。

適度な過密への再配置

今、都市計画には根本的に新しい見取り図が求められている。20世紀と21世紀の最大の違いは、20世紀が人口増大の世紀であったのに対して、21世紀は人口減少と高齢化の世紀であることだ。これは先進国ではすでに明白な問題として現れており、今世紀の半ば以降にはほぼ世界的な問題になる見通しだ。ハワードやコルビジェが直面したのとは全く異なる課題に私たちは直面している。過密の弊害ではなく、あらゆるところで過疎の弊害が現れている。郊外の過疎問題、地方都市のシャッター通り問題、市町村の消滅問題。光、風、緑がふんだんにあっても、人が閑散としているのでは意味がない。適度な過密性への再配置が求められている。

都心の高層ビル街化と郊外のニュータウン開発は、過密問題の解消には有効だったかもしれない。しかしこれは職住分離と通勤時間の増大を促し、コミュニティの衰退やストレスの増大など新たな問題を深刻にした。田園都市と輝く都市はもはや、問題解決の手段というよりも問題発生の原因になってしまったかのようだ。実際、1960年代に「街路の復権」を唱えたジェーン・ジェイコブズは、そんな問題意識から、ハワードやコルビジェを断罪した。21世紀の新しい見取り図では、職住近接のコンパクトな都市が基本になるだろう。

最後に、ハワードとコルビジェのために弁明を一言。彼らが実際に書いたものを読むと、通常の不動産開発を越えた社会デザインの思想を持っていたことがわかる。職住分離と通勤時間の増大は、実は彼らが最も悪しき問題と考えていたものだった。無秩序な過密が無秩序な職住分離を生む。職住近接の都市や社会へ再設計すべきだと考えていたのである。ところが彼らのプランは現実には正反対の方向に利用されていった。

社会デザインなき不動産開発が皮肉な結果を生んだ。同じ誤ちを繰り返さないようにすべきであろう。

仏教経済学で成長戦略を考える

ある大手広告代理店の若手のコピーライターと雑談していたとき、「たとえば『モーレツからビューティフルへ』というコピーがありましてですね」と 言われ、ちょっとへんな気持ちがした。なるほど彼にとっては「戦後TVCM傑作コピー選」とかいう感じの資料から得た歴史的な知識なのであろう。 しかしおじさんである私にとっては「ありましてですね」と説明してもらうまでもない、懐かしき往年の名コピーだ。

時代はまさに高度成長期からの転換期にあたる1970年前後。1969年には小川ローザのミニスカートが風であおられる「オー・モーレツ!」(丸 善石油=現在のコスモ石油のTVCM)がヒットし、その翌年の1970年、「モーレツからビューティフルへ」(富士ゼロックスTVCM)が話題に なった。私は小学校の4〜5年生だった。

これは今の若いコピーライターが見ても、時代の転換を鮮やかに言い表した名コピーなのであろう。というか、おそらくこの転換はまだ完了していない のであろう。1970年代という曲がり角は意外に大きな曲がり角なのだ。若いコピーライターは今でも通用するコピーとしてこれを再発見したのでは ないだろうか。

人間性の純化と向上を政策目標に

実際、1970年代の名著のいくつかはいま読んでも新鮮だ。TVCMとは直接関係はないけれども、1973年にイギリスの経済学者シューマッハー が発表した『スモール・イズ・ビューティフル』もその一つである。

シューマッハーはこの本や当時発表された他の論考で「仏教経済学」という考え方を提案している。現在、日本ではいわゆる「成長戦略」が進められているわけだが、この仏教経済学から学べる点がたくさんあるように思う。その中でここでは二つのポイントを挙げたい。一つは具体的な政策目標にかかわり、今一つは、基本的な哲学にかかわる。

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近代の西洋の経済学は、幸福と物質的欲望の満足を同一視する。そこで、できるだけ多く消費することが政策目標になる。これに対して仏教経済学は、最小限の消費で最大限の幸福を得ることを目標にするとシューマッハーは言う。

これだけ聞くと節制のすすめのような話のようだが、本当に面白い話はここから始まる。仏教経済学は、消費ではなく、働くことを重視する。西洋経済学によれば、働くことは労働者からみれば「限界不効用」(苦痛)であり、経営者からみればコストである。どちらからみても、最小限におさえたいものだ。労働者は時短を望み、経営者は無人工場を望む。

しかしこれは誤った考えだ。文明の核心は、「欲望の増長」ではなく「人間性の純化」にある。人間性はおもに仕事を通じて培われる。仏教経済学によれば働くことの意義は三つある。(1)能力の発揮・向上、(2)チームワークを通じた自己中心的な態度の廃棄、(3)生活に必要な財とサービスを作りだす。

そこでシューマッハーは、仏教経済学の具体政策目標は「完全雇用」であると言い切るのである。といっても、ケインズ政策の完全雇用とは異なる。ケインズ政策の公共投資で作り出される仕事は短期的な乗数効果を目的としたもので、極端に言えば無意味な穴掘り作業でもいいのだ。

一方、現在の政府が進めようとしている雇用規制の緩和は、衰退分野から成長分野への人材の移動を目的にしている。もし、経済成長を主目的とし、そのためには一時的に仕事を失う人がいてもやむをえない(痛みや摩擦は覚悟すべきだ)と考えられているとすれば、たいへん危険な発想だと思う。エリック・ブリニョルフソンMIT教授の『機械との競争』は、1990年代以降の米国で「イノベーションが進み生産性が向上したのに、なぜ賃金は低く、雇用は少なくなったのか」という問いを掘り下げたものだ。同じ轍を踏んではならない。

今の日本に必要なのは、仏教経済学的な意味での雇用政策ではないだろうか。政府として、三つの意義を備えた完全雇用を政策目標にするのである。人間性の純化と向上につながる仕事を、働く意志のあるすべての国民に提供する。結果的に、多くの国民がいきいきと働くようになり、生産性が向上し、チェレンジ精神あふれたベンチャーもあふれだしてくるに違いない。こういう順番でなければ、何のためのイノベーションかということになってしまう。


消費主義の裏にある人間観

次に、哲学の問題に移ろう。シューマッハーによれば、産業革命の以前には、実は西洋でも東洋でも人間性の完成を重視する文明がずっと支配的だった。キリスト教文化圏でも仏教文化圏でも、同じだったのである。

近代化以前に世界標準だった考え方は、近代化の限界や矛盾が目立ってきた1970年前後に再評価されるようになる。たとえば、スモール、ローカル、サステナブル、スピリチュアルといったヒッピー文化的な価値観はいずれもそうである。もっとも、ここから先はいくつかの道がある。近代化以前に帰るという道をとる人もいる。しかしシューマッハーはそうは考えなかった。伝統を守って貧しいままか、伝統を捨てて豊かになるかの択一ではない。第三の道があるはずだと考えたのである。私もそういう立場である。

さて、そんなシューマッハーは、人間を三つの部分からなる存在だいう伝統的な人間観をたいへん重視していたようである。三つとは、「スピリット、心、体」(※注)であり、近代人の通念とは異なり、スピリットこそ真実の存在だとされる。

ところが近代化以降には、「体と心」の二つの側面しか認めないようになり、場合によっては心も体の随伴現象に過ぎず、「体」だけが真実の存在だとするのが常識になっていった。こうなると、幸福とは欲望の充足であり、物質的消費の拡大であると考えるに至っても不思議ではない。

哲学が社会システムを作る

それだけではない。もし人間の真実の存在が物質(肉体)であり、偶然の産物であるならば、ひとりの個人にとって自己の誕生は世界の始まりであり、自己の死は世界の終りである。この哲学をととことんつきつめると、道徳や倫理は無意味だというところまで行ってしまう可能性がある。

ひとつ例を示そう。NHKのサンデル先生の白熱教室で、日本、中国、韓国の学生を集め、第二次世界大戦中の日本の侵略行為をどう捉えるかという議論をしていた。ある日本人の学生が、自分がやったわけではない、自分が生まれる前の出来事にどうやって責任をとれというのかと発言し、サンデル先生が「それは哲学的な問いだ」と受けるシーンがあった。(そういえば似たようなことを発言して物議をかもした日本の女性議員がいた)この議論の決着は、「今の日本人は過去の日本人の恩恵を受けているのだから責任も引き受けるべきだ」というものだった。何というまどろこしさだろう。

こんなにまどろこしく説明しなくても、実のところ私たちは、自己と他者、自己と祖先や子孫、あるいは自己と自然の全体とがつながっているというスピリチュアルな感覚を漠然と持っているのではないだろうか。良心の問題から、戦争責任、環境の問題まで、スピリチュアルな感覚の果たす役割は大きい。

仏教経済学の基礎にあるのは、こうした人間観であり、哲学である。シューマッハーは、私たちの基本的な哲学が社会システムを形作っており、この哲学が変わらない 限り、システムの根本は変わらないと言う。日本の社会政策にはいままさに、哲学の変更がもとめられている。

※注 シューマッハ―の人間観
このブログで紹介するシューマッハ―の主張は、主として「THIS I BLEVE(邦訳:スモールイズビューティフル再論)」に依拠している。原文ではここは「spirit, soul and body」で、翻訳では「霊と魂と体」になっている。しかし日本語としては「魂」は「霊」に近く、「霊」は「幽霊」を連想させ、シューマッハ―の言いたいことを必ずしも表現できないように思う。そこで「魂」ではなく「心」、「霊」ではなく(単に片仮名に置き換えただけだが)「スピリット」とし、「スピリットと心と体」とした。このほうが原文のニュアンスが伝わると思う。なお、シューマッハ―は、人間の心をheart とmindとsoulの三つを使い分けながら描いている。heartはbodyに近い。貪欲や性欲などheartの罪には生理的限界がある(暖かい罪)。mindはもっと抽象的な支配欲や知識欲のようなもので、ここには限度がなく、したがってその罪も真に恐ろしい結果を招く(冷たい罪)。heart とmind の全体をsoulと言っているようだ。シューマッハ―によれば、人間という存在の中で、価値の高いものから並べれば次のようになっている。
spirit >body,soul (heart>mind)
近代文明は、いちばん低いmindをいちばん高く崇め、いちばん高いspiritを貶める文明なのである。

長い目で見るということ

「マッキンゼー・クオータリー」にユニリーバ最高経営責任者ポール・ポルマン氏(Paul Polman)のインタビュー記事が出ていた。「ビジネス、社会、そして資本主義の未来Business, society, and the future of capitalism」という魅力的なタイトルにひかれてざっと読んでみたが、なかなか面白い。

共通価値の戦略(CSV)の実践例、ユニリーバ

ユニリーバは世界190か国に食品や日用品のブランドを展開するグローバル企業である。日本に馴染のあるブランドは、リプトン、ブルックボンド (紅茶)、クノール(食品)、ラックス(石鹸など)、ポンズ(スキンケア)、ティモテ(ヘアケア)あたりであろうか。そして、以前にこのブログでも紹介した「共通価値の戦略 (CSV=Creating Shared Value)」を実践する企業なのである。(共通価値の戦略はどこまで「うまい話」か)

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私自身は一昨年、『フロネシスno8/気候変動リスクにそなえる』の編集に携わる中でこの企業の存在感を初めて知った。世界の水問題の解決に貢献 する企業という紹介の仕方だ。ユニリーバは2010年、「ユニリーバ・サステナブル・リビングプラン」を策定した。これは、普通の環境経営や CSRとは違って本業と直結したプランであり、「環境負荷を減らし、社会に貢献しながら、ビジネスの規模を2倍に」と明言されている。

ユニリーバのプランは9つの目標を設定しており、水資源問題はその一つである。「2020年までに、消費者の皆さまがユニリーバの製品を使う際の 水使用量を半減させます。」としている。具体的には節水型商品を開発して販売していくわけだが、実に綿密な進め方をする。このテーマに詳しい同僚 研究員によれば、「あざとい」とすら言えるそうだ。

たとえば中国、インドネシア、トルコなど7か国を水不足の国とし、綿密な現地調査に基づき「製品使用1回あたりの水使用量」という新しい指標を設 定する。こうして同業他社よりも先行してアピールすることで、結局は自社製品がデファクトスタンダード(事実上の標準化)になる。ユニリーバは ISOによるウオーターフットプリント(製品の製造から消費までライフサイクルにおける水の総使用量の指標)の規格化にも関わっている。自ら問題 可決のフレームを設定し、率先して実行することにより、結果的に業界をリードするポジションを獲得するわけである。

長い目で見ればみんなにとっていい話

マッキンゼーのインタビューの記事を読むと、こうした戦略の背景にどういう考え方があるのかがよくわかる。中でも私が今回読んで一番感銘を受けた のは「長い目で見ることの功徳」である。以下に記事の中から私の興味を引いたポイントをピックアップしよう。

現在の資本主義は、資源・エネルギー消費の点でも、世界的な貧富の格差という点でも持続可能ではない。資本主義は進化する必要があり、それには以 前とは異なるタイプのリーダーが求められる。とくに、長期的観点に焦点をあて、目的志向で体系的に考える能力、そしてより透明性が高く有効なパー トナーシップを作れる能力が重要になる。

現在の最高経営責任者ポール・ポルマン氏は2009年に就任し、2010年に「ユニリーバ・サステナブル・リビングプラン」を策定した。これらの プランの実現には時間がかかる。たとえば、小規模農業、食糧安全保障および森林破壊の問題などは10年の計画を要求する。

ポルマン氏は、長期的な戦略を実行するため、四半期でのP&L(損益計算書)の詳細報告を廃止した。その結果、「私たちの株価は、8パー セント落ちました。しかし、それは私をあまり悩ましませんでした。より長期においては、会社の真実のパフォーマンスが株価にも反映されるというの が私のスタンスでした」。

すべてのタイプの消費者を満足させることはできないように、すべてのタイプの株主を満足させることはできない。短期的利 益ではなく、長期的成長モデルに魅力を感じる株主もいるのだから、そういう人を中心とする株主構成にすればよい。そして実際、そのように変わっていった。結果的に、投資家との対話は目先の利益を超え た成熟したものになり、よりよい経営判断を行うことができるようになった。

また、長期的思考は従業員のモチベーションにもよい効果をもたらした。長期的に社会に役立つ事業に貢献するという「目的志向のビジネスモデル」は 従業員をひきつける。金融部門と同じ給料を払っているわけではないが、従業員のエンゲージメント(会社の使命への主体的関与)とモチベーションは 過去4〜5年にわたって非常に上がった。

資本主義をより長期的に見る必要があるのは単に企業リーダーだけではない。たとえば、年金基金だ。これらの資金は労働者が退職した後に、長期的な リターンを保証するために存在するものだ。

ポルマン氏は、企業の社会的責任や慈善行為は重要であるが、企業がもし存続し続けたいならそれ以上の肯定的な貢献をしなけれならないという。それ が企業および社会の長期的利益の一致だ。しかも、ビジネスは問題解決への有効なドライブ要因になる。利益を出さなければならないということは、解 決策を駆り立てる際に重要な役割を果たすのだ。

未来の資本主義へ

以上がポルマン氏インタビューの簡単な要約である。社会の利益と企業の利益が一致するためには、いくつかの条件が必要であろう。まず必要なのは、企業の存在理由は「社会の役に立つこと」という前提に立ち、事業活動の目的を明確にすることだと思う。ただし目的は立派でも行いが伴わないのでは意味がない。実際には短期的利益を要求する社内外からのさまざまな横ヤリが入るであろう。

そこで、第二の条件、「長い目で見るということ」が大事になる。長い目で見た経営判断は、まずたいていにおいて、社会の利益と一致するからだ。ここを押し切れるかどうかが分かれ目になるにではないだろうか。

問われるのは経営者の資質だけではない。消費者として、従業員として、株主として、私たちはさまざまな側面で資本主義社会の一員である。資本主義を進化させるということは、私たちの社会をよりよいものにしていくということを意味する。商品は安くて便利ならよいのか。株価は上がりさえすればよいのか。短気な消費者、短気な株主になることは、結果的に自分の首をしめることになりかねない。長い目で見れば、私たちはみな共通の価値を目指している。そういう安心感や一体感の中で競い合うのが未来の資本主義なのだと思う。

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