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幸福になるお金の使い方

お金は人を幸福にするかという研究は、幸福度研究の中でも大変興味深い研究の一つである。さまざまな検証結果から、お金は必ずしも人を幸福にしないということはほぼ定説になったと言ってよい。そこで、「ではお金以外の何が人を幸福にするのか」という研究が重要になるのだが、同時に近年、「どのようなお金の使い方が人を幸福にするのか」という研究も出てきた。消費社会をある程度肯定しながらも、賢くお金を使おうではないかというわけだ。

そうした研究によって得られた知見のうち、私は次の二つが重要だと思っている。それは「体験を買うほうがモノを買うより幸福になる(体験消費>モノ消費)」「みんなで楽しむほうがひとりで楽しむより幸福になる(絆消費>自己完結型消費)」の二つだ。これらをかけあわせると、図のような4象限の消費行動領域を作ることができる。ここから次のような仮説が導きだされる。

happy.jpg


絆と体験の両方を満たす第Ⅰ象限の消費が、いちばん幸福度が高い。たとえば、仲間と一緒に出かける旅行や外食、コンサート、スポーツ観戦などは、体験消費であり、かつ絆消費である。

次に幸福度が高いのは、第Ⅱ象限と第Ⅳ象限の消費である。第Ⅱ象限は、絆消費ではないが、体験消費の条件は満たしている。一人旅は、みんなで出かける旅ほど幸福度は高くない。しかし自宅にひきこもってオタク的なコレクションを楽しむといった消費より幸福度が高いであろうというわけだ。

第Ⅳ象限は、体験消費ではないが絆消費の条件を満たす。この領域の代表的なものが耐久消費財であろう。高度成長期の日本、近年に言えば中国などの新興国では、経済の発展、都市部への人口流入、核家族化が進む。やがて都市部の核家族の所得が上がり、住宅、家電、家具、自家用車などを購入する中間層として台頭する。これらはなるほどモノであるが、これらのモノを通して家族が幸福になることが本来の目的だから、絆消費と言えるのである。ところが日本では1970年代には多くの家電は「一家に一台」まで達してしまい、仕方ないのでメーカーは一部屋に一台を目指して「個電」というコンセプトを提唱した。こうなると絆消費の条件を失い、幸福度は落ちてしもう。

第Ⅱ象限と第Ⅳ象限のどちらが幸福度が高いのかはこの図式だけでは決められないが、いずれにせよ第Ⅲ象限よりは高い。まとめれば、幸福度の順番は、第Ⅰ象限>第Ⅱ、Ⅳ象限>第Ⅲ象限になる。

もちろん、以上は相対的な評価であって、第Ⅲ象限の消費が幸福度の向上に貢献しないという意味ではない。また、もともとの「体験を買うほうがモノを買うより幸福になる)」といった知見は、アンケートなどによる「そういう回答者が多い」という結果に依拠しており、当然ながら個人差がある。しかし目安としては十分に使えると思う。賢いお金の使い方をしたいなら、モノ消費、自己完結消費でなく、できるだけ体験消費、絆消費にお金を使うようにしたほうがよい。やってみる価値はあるのではないだろうか。

マーケティング戦略においても重要な目安になるはずだ。絆消費が幸福度を高めるのだとしたら、どのような絆が求められているのか、求められているのに満たされていない絆は何かを考えていけば、新市場・新商品・サービスのヒントになるであろう。体験についても同じようなことが言えるだろう。

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「青い鳥」の心理学

メーテルリンクの「青い鳥」という戯曲がある。チルチルとミチルが夢の中で妖女から青い鳥の探索を依頼される。二人は「記憶の国」「夜の国」「森の国」「墓の国」「幸福の国」をめぐって探すが、青い鳥はつかまるようでつかまらない。最後は、夢からさめて自分の家の鳥かごを見たらそこに青い鳥がいる。なんだ、こんなところにいたのか、というわけである。

青い鳥は何のシンボルなのか、また、このおとぎ話が何を言おうとした話なのか、よく考えてみるとけっこう難しい。メーテルリンクは神秘主義を研究した本も書いているくらいの人だから、簡単に片づけてはいけないのであろう。

一般的には、青い鳥は幸福のシンボルだとされることが多いようだ。私の世代は桜田淳子の「クック・クック~」という歌詞のリフレインがすぐ思い浮かんでしまうのだが、そこでも青い鳥は幸福のシンボルであった。

快楽の踏み車

人はしばしば、もっと収入が増えれば、もっと広い家に住めれば、もっと大きい車を買えば、もっと面白い仕事ができれば、つまり「もっと**すれば」もっと幸福になれると考える。しかし手に入れるとそれほど幸福にはなっていない自分を発見し、次の「もっと」に向かう。チルチルとミチルがさまざまな国をめぐって青い鳥を探索するように、幸福の青い鳥を探し求めるのである。中にはどこかでふと悟って、チルチルとミチルのように意外に身近なところに幸福を発見する人もいるかもしれないが、現実社会の「もっと」には果てしがない。

幸福度の研究では、「もっと」の際限のない追及は「快楽の踏み車(hedonic treadmil)」と呼ばれてきた。生活環境の改善が幸福度の向上に驚くべきほどわずかな影響しか与えないということがいろいろな点から検証されているのである。

生活環境が改善すれば、もちろんその瞬間は以前より幸福になる。しかしすぐに「順応(adaptation)」してしまって、ベースラインに戻ってしまう。これは生活環境が悪くなる場合も同じで、大きな不幸があれば当然幸福度は下がるが、意外に早く回復することも知られている。

こうした順応のプロセスでは「標準の変更」が行われているのであろうと分析されている。人は境遇が変わると幸福の標準もいつの間にか変えてしまう。たとえば、客観的には金持ちは貧乏人よりもより多くの快楽を体験している。しかし自分は金持ちだと思うと、もっと大きな快楽があるに違いないと思ってしまうのである。

「焦点化の仮説」で二種類の幸福度を読み解く

以前にもこのブログで紹介したが、幸福度には二つの種類がある。一つは、「あなたは生活に満足していますか」「あなたは幸福ですか」といったように総括的な判断結果を幸福度の指標にするもの。これに対して、心理学者のダニエル・カーネマンらは日々の具体的な行動やシーンでの感情体験(幸福だ、愉快だ、楽しい等)を計測した幸福度研究を行った(※注)。そして、感情体験としての幸福度もまた、生活環境にはほとんど影響されないことを発見した。

カーネマンらは、これを説明するために、従来の「快楽の踏み車」や「標準の変更」とは別に、「焦点化の仮説」という新しい仮説を考えた。これは、人は殊更に人生の評価を聞かれない限り(焦点化されない限り)、自分の客観的な生活環境に注意を向けないというものだ。カーネマンらはこの仮説に基づいて興味深い検証作業を行った。幸福度の原因、背景と幸福度について、次の2×2の可能性があるが、カーネマンらによれば、次のような関係になっている。

<原因、背景>
(1)客観的な生活環境
(2)気質や性格、睡眠
<幸福度>
(A)生活満足度としての幸福度
(B)感情体験としての幸福度

まず「(1)生活環境の変化」は、「(A)生活満足度としての幸福度」に若干の影響を与える。誰でも改めて自分の生活満足度を聞かれれば、自分の生活環境に思いを致す(意識が焦点化される)。金持ちになったばかりの人は自分が金持ちになったことに、離婚したばかりの人は自分が離婚者であることを強く意識するだろう。しかしだいたいはすぐに慣れてしまうので、結局は大きな影響を与えない。若干の影響にとどまるわけである。一方、「(B)感情体験としての幸福度」は、焦点化する以前の体験報告だから、ほぼ何の影響も与えない。データを検証すると見事にそうなったというのである。

たとえば、世帯収入や婚姻状況が与える影響は、生活満足度に一定の影響を与えているが、感情体験に対する影響はそれよりも小さい。仕事の評価にも同様なことが言えて、高い収入は仕事満足度を上げるが、仕事中の感情体験には影響を与えていない。

これに対して、「(2)気質や性格、睡眠」は、感情体験にも生活満足度にも、同様に同程度の大きな影響を与える。睡眠の質が低いとか、抑うつ状態になっているとかいうことが、客観的な生活環境よりも幸福度によほど大きな影響を与えるというのである。

感情体験の分析から明らかなのは、たとえ生活環境が改善しなくても、「よく眠る」とか「できるだけ明るい気持ちになる」などの日常的な工夫次第で幸福感が向上する余地は十分にあるということであろう。幸福の青い鳥の心理学的な検証である。

(※注)
本ブログ(2014/04/20「感じる幸せと考える幸せ」)で紹介した論文「A Survey Method for Characterizing Daily Life Experience: The Day Reconstruction Method」

遠野物語の現代性―高齢社会の死生観

「老年学(ジェロントロジー)」という学問分野がある。私も編集に携わっているシリーズ書籍『フロネシス』で登場してもらった秋山弘子先生によれば、かつて老年学のメインテーマは平均寿命を如何に伸ばすかだった。しかし今や発想は量から質へ移っている。単に長生きするだけでなく、如何に質の高い生活を維持するか。身体的にできるだけ自立し、社会的な役割を持つ、そういう期間を如何に長くするかというわけだ。1987年にアメリカの「サイエンス」誌で「サクセスフル・エイジング」という概念が提案されたのが転機になったという。

こうした研究は、高齢社会における幸福度を高めるのに大いに役立つであろう。しかし、高齢社会の幸福論にはまだここから先のテーマもある。いかに高齢期のQOLを高めても、誰でもいつかはこの世から去る。

老年学から死生学へ

ここで登場するのが「死生学(サナトロジー)」という学門だ。歴史家のフィリップ・アリエスがかつて明らかにしたように、近代社会は死の問題をできるだけ見えないところに隠そうとしてきた。一方、宗教学者の島薗進の『日本人の死生観を読む』によれば、その反動からか、ホスピス運動を背景に1960年代のアメリカやイギリス、そして70年代の日本で死生学が台頭する。

島薗進は、死生学や死生観への関心の高まりの背景は高齢化だけでは説明しきれないとし、死生観という言葉の発明された日露戦争前後までさかのぼって考察する。これはこれでとても興味深いアプローチだ。しかし私は、やはり高齢社会との関係に注目したい。これから高齢者はますます増えて、関心を持つ人のすそ野がますます広がっていく。

高齢社会は、年間にこの世を去る人の数が、この世に誕生する人より多い社会でもある。以下は2050年までの10年ごとの「出生数」と「死亡数」の予測だ。中位予測で単位は千人である。

2011年 出生1071 死亡1264
2020年 出生836 死亡1435
2030年 出生749 死亡1610
2040年 出生667 死亡1619
2050年 出生557 死亡1590

これを見れば、2020~30年代に、死生観の大きな革新が起きても不思議ではない。

宗教は信じないが霊魂は信じる?

もっとも、死生学は老年学に比べると、いろいろ難しい問題を抱えている。死生観は宗教と深く関係するし、いわゆる科学的な検証にはなじまない。一人の人が、どのような宗教的信念に基づき、どのような死生観を持っているかということは、余人の簡単にうかがい知れることではないし、客観的に証明するのも難しい。それは尊重すべきものだが、議論すべきものではない。だいたいこのへんが、これまでの良識ある知識人の態度ではないだろうか。

私もこれは決着のつけられる議論だとは思わない。しかし、もっとオープンに議論してよい問題だと思う。霊魂はあるかというような問題を、知識人が恥ずかしからずに議論できる社会的雰囲気を作ったほうがよいのではないだろうか。かつて心理学者の河合隼雄は、現代知識人は<性>より<聖>を恥ずかしがっていると語った(『中空構造日本の深創』)が、たしかにそういうところがありそうだ。

実際、オープンな議論へのニーズが高まっているように思う。孫引きで恐縮だが、島薗進は前掲書の中で、朝日新聞の死生観に焦点を当てた世論調査(2010年11月4日付)の結果を紹介している。その中で、日本人の多くが宗教には期待しないが霊魂の存在を信じるという反応を示していることに注目している。「宗教を信じることにより、死への恐怖がなくなったり、やわらいだりすると思う」と答えた人は26%、「思わない」は68%。ところが、「人間は死んだあとも、霊魂が残ると思う」と答えた人は46%、「思わない」の42%と拮抗している。

これはたいへん面白い結果だ。宗教への関心ではなく、霊魂への関心なのである。こういう関心の高い人向けには、かねてより「スピリチュアル」「神秘体験」というジャンルの議論や研究があった。しかしもう少し間口の広い議論もあってよいのではないか。46%という数字の高さはそんなことを感じさせる。

矢作直樹の『人は死なない―ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』(バジリコ)がベストセラーとして歓迎された背景には、死生観をめぐるオープンな議論へのニーズがあったのではないだろうか。この本は著者の誠実な人柄や真摯な姿勢が感じられて、普通に読んでも後味のよい本なのだが、やはり「東京大学教授、外科医」というわかりやすい看板の知識人が、霊魂の存在を堂々と議論してくれたということがベストセラーの原動力になっているに違いない。

『遠野物語』にすべての原型がある

矢作直樹の本に出ている体外離脱体験などの事例は、素朴で飾り気のない話だ。「そんな程度のことならあるかもしれない」と誰にでもふと思わせるものだ。たとえば、Cさんの事例。Cさんは若いころに自動車事故で体外離脱体験をした。同席していた妹は帰らぬ人となった。

「はっと気づくと、妹と並んで左後ろ十メートルくらい上から自分の車を見下ろしていました。車は、横に倒れた電柱に巻き付いて大破していて、その中は見えませでした。(中略)どれくらいの時間が経ったのか、短かったか長かったかわかりませんが、事故の現場をいっしょに上から眺めていた妹が、突然「お兄ちゃんは戻りなよ」と言いました。その瞬間、私は車の運転席に横たわった状態で目が覚めました。先ほど上から眺めていた通り左真横に電柱があり、妹は私の左肩に頭を乗せまさに息を引き取るところでした。」

どういう運命のいたずらか、Cさんはその後、やはり車の事故で長男を亡くされているが、この時も不思議な体験をしている。

「なお、後日談ですが、Cさんはこの事故から十二年後に十七歳の長男を自損事故で亡くされました。事故当日、警察の連絡を受けて出向き、自宅に長男の遺体を連れ帰って奥の間に安置しました。その晩深夜二時ごろCさんは、自分のいるリビングルームの入口に向かって外から足音が近づいてくるのを耳にしましたが、その足音は明らかに長男のそれでした。すると、開けたままの扉の外に長男が立っていたそうです。長男は、下肢までちゃんとありました。」

この余計な解釈や意味付けをしない簡潔な記述は、私には柳田国男の『遠野物語』を思いこさせた。『遠野物語』は柳田の民俗学の出発点になった作品(明治43年発表)で、岩手県の遠野地域に伝わる民話の聞き書きだ。内容的にもCさんの事例とよく似た事例が出てくるので紹介したい。

九七話には臨死体験の中で体外離脱する話が出てくる。Cさんの「お兄ちゃんは戻りなよ」に相当する「今きてはいけない」と言うセリフで本人は帰還するのだ。


「九七 飯豊の菊池松之丞という人傷寒を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上がり、およそ人の頭のほどのところを次第に前下りに行き、また力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず快し。寺の門に近づくに人群集せり。(中略)以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。(中略)心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り集い水など打ちそそぎて喚び生かしたるなり」。

二二話では、葬儀の日に足音がするのでふと見ると、棺に納めたはずの死者が立っているという体験が語られる。

「二二 佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。(中略)喪の間は火の気を絶やすことを忌むがところの家風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裏の両側に座り、母人は旁に炭籠を置き、おりおり炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、亡くなりし老女なり。(後略)」

ある女性の心身体験

これほどぴったりではないが、矢作直樹のあげるBさんの事例も、『遠野物語』に原型と思しき話がある。Bさんは「自分の心に他人が入ってくる」という状態に苦しんでいたが、あるとき、無意識のまま実家からもと住んでいたマンションへ行き、高層階から飛び降り自殺した。

「そうこうしていると、ある女性が「あなたの体を借りたい」と私の頭の中に話しかけてきました。(中略)そんなことが続き、自分が変だと気付いて何とか助けを求めたかったのですが、取り付いている「他人」に「あなたの夫に危害を加える。あなたをもっとひどい状態にする」と脅され、どうすることもできませんでした。そんな状況の中、私は当時住んでいたマンションから実家に移り住むことにしましたが、母が留守の間に私が意識のないまま、元住んでいたマンションの八階の自分の部屋にいました。そして、そこからまさに飛び降りたとき、地上の景色が目に入った瞬間に意識が甦りました。」

『遠野物語』一〇〇話には、自分の心に他人が入ってくるのではないが、自分の心が狐に入ってしまった女性の話が出てくる。

「一〇〇 船越の漁夫何某、ある日仲間の者とともに吉利吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思い定め、やにわに魚切包丁を持ちて差し通したれば、悲しき声を立てて死せり。(中略)おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰り遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。(中略)山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹の狐となりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身を雇うことありと見ゆ。」

また、『遠野物語』には、六、七、八話など、若い女性の神隠しの話が複数収録されているが、これは無意識のまま実家からいなくなってしまったというBさんの事例の後半部分を彷彿させる。

「七 上郷村の民家の娘、栗を拾いに山に入りたるまま帰り来たらず。家の者は死したるならんと思い、女のしたる枕を形式(かたしろ)として葬式を執行い、さて二、三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五葉山の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽いかかりて岩窟のようになれるところにて、図らずこの女に逢いたり(後略)」

今こそリアルな「常民」

『遠野物語』の世界には、神道の影響も仏教の影響も見られない。人々はごく自然に、動物、妖怪、死者などと隣り合って生きている。こんなふうに生きている日本人を柳田国男は「常民」と呼んだ。宗教心の薄い現代日本人が、科学では決着のつけようのない死生観に立ち向かうとき、いつの間にか常民に戻っているのかもしれない。

明治以降の近代化に熱心だった時代の日本人(特に知識人)にとっては、『遠野物語』は迷信の世界に見えたであろう。しかし、近代化の限界をいろいろなところに感じている今の日本人には、いちがいに迷信と片付けられない何かを感じることができるのではないだろうか。死生学が民俗学から得るものは多そうだ。

国民幸福度は変えられる

先進国の中でも幸福度の低い日本と、世界一幸福度の高いデンマークの違いは何か。前回のブログでは、文化圏という考え方でその違いの一部を説明できることを書いた。文化は数百年とか数千年とかいう単位で形成されるものだから、それがすべてなら、幸福度のレベルを変えるのは絶望的に難しいことになる。

ユーロバロメータによる長期比較

こうした問題を正確に考えるためには、国別の幸福度を長期にわたり比較できるデータが必要だ。残念ながら全世界をくまなく長期にわたり比較できるデータは存在しない。前回紹介したワールドバリューサーベイも1990年代以降でないと比較できない。しかし欧州に限定すれば、ユーロバロメーターの生活満足度調査は1973年から追うことができる。これを分析した論文を見つけたので紹介しよう。

「Genes, Culture, Democracy, and Happiness/ Ronald Inglehart and Hans-DeterKlingemann」(『Culture and Subjective well-being』(2000年)所収)

原図では、デンマーク、オランダ、ベルギー、アイルランド、英国、スペイン、ドイツ、ギリシア、フランス、イタリア、ポルトガルの生活満足度調査で「とても満足」と回答した人の割合が1973年から1998年までグラフ化されている。ここでは、さらに最新の2013年のデータも加筆し、合計では40年間の変化を見渡せるようにしてみた。ちなみに最も古い1973年と最も新しい2013年の順位を書きだすと以下のとおり。

【1973年の順位】
1.アイルランド、2.デンマーク、3.ベルギー、4.オランダ、5.イギリス、6.ドイツ、7.フランス、8.イタリア(ギリシアとポルトガルはデータなし)
【2013年の順位】(カッコ内数字はEU28カ国全体での順位)
2013年には、1.デンマーク(1)、2.オランダ(3)、3.イギリス(4)、4.ベルギー(8)、5.ドイツ(9)、6.アイルランド(10)、7.フランス(13)、8.スペイン(15)、9.ギリシア(24)、10.イタリア(25)、11.ポルトガル(28)


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これを見ると、国ごとに幸福度の上下動が見られるが、一部の例外を除き、順位が大きく入れ替わるほどの変化はない。特に、デンマーク、オランダ、イギリスが上位グループ、ドイツ、フランス、スペイン、イタリアがそれに次ぐグループで、ポルトガルは最下位であるという順番は変わっていない。前回のブログで紹介した、ワールドバリューサーベイのデータに基づく文化圏と幸福度の関係、すなわちプロテスタント文化圏(デンマーク、オランダ)のほうがカトリック文化圏(フランス、スペイン、イタリア)より幸福度が高いという結果がここにも現れている。

政治と政策によって変動する幸福度

やはり国民の幸福度には、ある種のベースラインのようなものがありそうだ。それは遺伝的・文化的要因によるもので、少なくとも、数十年の単位では大きく変わらないのであろう。しかし一方で、仔細に見れば、数十年単位での変化が見られるケースもある。

まず悪い方向への変化について。アイルランドとベルギーは例外的に大きく順位を下げている。1973年には1位と3位だったが、1980年代にかけて大きく低下していった。アイルランドの場合は、イギリス領北アイルランドをめぐるテロ紛争が影を落としているのであろう。ベルギーはオランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)とその結果としての連邦制への移行(1993年)が影響しているのであろう。政治的な不安定は国民の幸福度に明らかに悪い影響を与える。

次に、良い方向への変化だ。デンマークは最初から高い生活満足度を示しているのだが、さらに40年間にわたって上がり続けていることに注目したい。

北欧は1970年代以降、福祉国家の道を歩み続けて来た。アングロサクソン流の自由主義的経済に対して、神野直彦先生流に言えば「分かち合いの経済」を志向してきた。映画『happy』で紹介された「コ・ハウジング」もその一つの現れだ。また1990年代、成長産業への労働移動が求められた先進国中で、北欧では労働者の社会保障にも配慮したフレキシキュリティ(柔軟性flexibilityと安全性securityを組み合わせた造語)政策を進めた。フレキシキュリティは当時のデンマーク首相が提唱したコンセプトだ。こうした政策努力が、デンマークのもともと高い生活満足度をさらに高めたに違いない。

日本とデンマークでは人口規模も文化的伝統も違う。幸福度(生活満足度)の単純な比較にはあまり意味はないし、同じ政策をとればうまくいくとは限らない。しかし、経済的に豊かになっていったにもかかわらず生活満足度がほとんど上がっていない日本に対して、持続的に上がっていったデンマークという比較には大きな意味があると思う。

政策努力によって国民の幸福度を上げることはできる。その効果は数年では現れないかもしれないが、数十年の単位では着実に現れる。勇気づけられる話ではないか。

儒教文化圏の幸福度

前回のブログで映画『happy』の気になるシーンのことを書いた。今回はもう一つの気になるシーンから始めたい。映画の序盤、画面には地球儀が出てきて、日本、ブータン、デンマークの順番で紹介される。

日本は過労死の不幸な国?

日本は、先進国の中でも幸福度の低い国として紹介される。日本は敗戦の後、高度成長を遂げて世界から賞賛を浴びた。しかし、豊かになっても彼らは働き続けているのですという紹介の仕方で、「過労死」がクローズアップされていた。

次に紹介されるブータンはGNH(国民総幸福度)で有名だ。経済開発より幸福度を重視した国づくりの例として、ダム開発をしない理由が説明されていた。ダムを作ることは収入をもたらすが、村を水没させることで伝統を破壊し、景観を損ねる、つまり幸福度を損なうというわけだ。

一方、デンマークは、先進国の中でも幸福度の高い国として有名だ。ここでは、コ・ハウジングの試みが紹介されていた。複数の家族が住む共同住宅なのだが、台所などを共有し、さらに食事当番などを決めて共同炊事もする。子どもだちもみな兄弟のように育つし、高齢者は隣の子どもを孫のようにかわいがる。高齢者のひとりくらしやひとり親でも安心してくらせる。

このあたりまで来たところで、DVDを一緒に観ていた妻が「やあねえ、何だか日本だけ暗い話じゃないの」と不満をもらす。確かに、ナレーションはあからさまには言わないものの、物質的豊かさを達成したのに幸福になれない日本に対して、物質的豊かさよりも幸福度を選んだブータン、物質的豊かさを越えた豊かさで幸福になったデンマークという対比を見せたい映画監督の意図は明白だ。

この後、沖縄が健康長寿の地域として紹介されて多少フォローされる感じではある。しかし沖縄は日本を代表する地域とは言えない。「経済的成功を信じて幸福を見失った日本」と決めつけられたような嫌な後味が残ってしまうわけだ。

「プロテスタント」対「儒教」

主観的な幸福度の国別比較でよく使われる「世界価値観調査」を見ると、なるほど日本は先進国の中では幸福度が低い。そしてデンマークは高い。これは何故だろうか。経済的豊かさがその国の幸福度を必ずしも決めないとしたら、何がその要因なのだろう。戦後の日本人の国づくりは間違っていたのだろうか。

ここで考えてみたいのは、国民性の違いという問題である。価値観調査の比較から国民性や文化の違いを研究するCross-Cultural Analysisという分野がある。その分析の成果の一つに「世界価値観調査」に基づく「イングルハート-ヴェルツェル図(Inglehart-Welzel Map)」というのがある。まずそれを紹介しよう。
http://www.worldvaluessurvey.org/WVSContents.jsp

この図では世界の国が9つの文化圏に分けられている。図の中に出てくる国を書き出してみると次のようになる。

1.プロテスタント・ヨーロッパ文化圏(Protestant Europe)
スウェーデン、ドイツ、フィンランド、ノルウェー、デンマーク、スイス、オランダ、アイスランド
2.カソリック・ヨーロッパ文化圏(Cathoric Europe)
フランス、イタリア、スペイン、ベルギー、ルクセンブルグ、スロベニア、チェコ、クロアチア、スロバキア
3.英語文化圏(English speaking)
イギリス、アイルランド、北アイルランド、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド
4.ギリシア正教文化圏(Orthodox)
ロシア、ブルガリア、ベラルーシ、モルドバ、ウクライナ、セルビア、マケドニア、ルーマニア、ポーランド
5.儒教文化圏(Confucian)
日本、韓国、中国、台湾、香港
6.南アジア文化圏(South Asia)
インド、ベトナム、キプロス、タイ、マレーシア
7.イスラム文化圏(Islamic)
イラク、インドネシア、エチオピア、ザンビア、トルコ、イラン、バングラディッシュ、パキスタン、ジンバブエ、ヨルダン、モロッコ、アルジェリア、エジプト
8.アフリカ文化圏(Africa)
ウガンダ、ナイジェリア、マリ、南アフリカ、ルアンダ、タンザニア、ガーナ、ブルキナファソ
9.ラテンアメリカ文化圏(Latin America)
ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、チリ、メキシコ、ペルー、ベネズエラ、グアテマラ、コロンビア、エルサルバドル、プエルトリコ

日本は5の儒教文化圏に入る。日本では仏教も盛んではないかという疑問もわくが、韓国や中国と併せて儒教文化圏だと言われると、それはそれで納得感がわく。そもそもこの分類の中には仏教という切り口は存在しないから仕方ない。映画で日本との対比で幸福度の高い国として紹介されたデンマークは1のプロテスタント・ヨーロッパ文化圏に入る。

そこで、明確に宗教を中心としたネーミングになっている「1、2、4、5、7」に含まれる国を選び、別のマップに落としてみたのが下の図だ。ベースにしたマップは以前に紹介したことのあるもので、横軸に1人当たりGDP、縦軸に幸福度をとっている。こうして見ると、基本的には1人当たりGDPが高い方が幸福度も高いという相関関係がある中で、同じくらいの経済レベルなのに幸福度が違う場合には、文化圏の違いが相当な影響がありそうだと思えてくる。

図2nn




経済レベルが高い先進国グループの中では、ピンク色の点にしたプロテスタント・ヨーロッパ文化圏の幸福度が、黄色にしたカソリック・ヨーロッパ文化圏よりも高い。日本はほぼカソリック・ヨーロッパ文化圏と同じくらいの位置にいる。一方、経済レベルが低いグループの中では、緑色のイスラム文化圏が紫色のギリシア正教文化圏よりも高い。ちなみに宗教文化圏とはされていないが、図で破線に囲まれているラテンアメリカ諸国の幸福度はイスラム文化圏よりさらに高い。

儒教文化圏の国は赤色の点にしてあるのだが、なかなか示唆に富む結果になっている。日本、韓国、台湾、中国は1人当たりGDPで言えば、先進国グループから後進国グループまで広く分布している。これは他の文化圏にはない特徴だ。そして、1人当たりGDPにこれだけの違いがあるにも関わらず、幸福度に大きな違いはない。結果的に、儒教文化園の国は、後進国グループの中では中の上くらいの幸福度に位置する(中国はイスラム文化圏よりは高い)し、先進国グループの中では低い幸福度に位置する(日本はプロテスタント・ヨーロッパ文化圏よりは低い)という結果になっているのである。

プロテスタント・ヨーロッパ文化圏の場合は、すべての国が先進国グループに属しているので、文化的要因の影響度は儒教文化圏ほど明確ではない。それでも、同じ先進国グループの中で、プロテスタント・ヨーロッパ文化圏>カソリック・ヨーロッパ文化圏、儒教文化圏という高低関係があるのは、文化的な影響であろう。

「現生肯定」より「現世改造」のほうが幸福?

マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で明らかにしたように、プロテスタントは資本主義の成立に大きく貢献した。プロテスタント・ヨーロッパ文化圏の人は現代の資本主義社会との親和性が高く、幸福度も高まりやすいのではないだろうか。

もっとも、ウェーバーは、資本主義が発達するにつれ初期のプロテスタントの倫理的内容は失われていくという皮肉な結末になったと見ていたようだ。しかし仮にそうだとしても、少なくとも、プロテスタント以外のキリスト教諸派の信者やそもそもキリスト教以外の信者よりは現代世界に親和性があると見てよいだろう。

ウェーバーによれば、現世を呪術から解放すること、救済への道を瞑想的な「現世逃避」から行動的・禁欲的な「現世改造」へと切りかえること、この二つが残りなく達成されたのは、西洋の禁欲的プロテスタンティズムにおける教会および信団の壮大な形成のばあいだけだという。それは、古代人やカトリック平信徒の人間性の素朴な「現世肯定」、儒教における無条件の「現世肯定・現生順応」とは根本的に異なるというわけだ。

プロテスタント・ヨーロッパ文化圏のデンマークは「現世改造」的、儒教文化圏の日本は「現世肯定」的ということであろうか。この違いは確かに幸福度の微妙の違いに影響していそうだ。
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