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体験型消費とホリスティックな幸福

体験型消費はなぜ物質型消費より幸福度が高いのだろうか。前回のブログに続き、今回はリーフ・バン・ボーベン(Leaf Van Boven)の「To Do or to Have? That Is the Question.」の後半部分の考察を紹介する。私の解釈による補足を適宜加えている。バン・ボーベンは3つの理由をあげているので順に見ていこう。

体験はポジティブな再解釈により大きく開かれている

物の所有よりも体験のほうが幸福度を高める。人々はそう答える傾向があるのだが、実験的研究によれば、近い将来よりも遠い過去や遠い未来での選択について考えるときに、よりそういう傾向が見られるという。

バンボーベンがこの実験結果に対する考察としてあげていることのなかで、私にとって興味深く感じられたのは、「快楽の踏み車」と呼ばれる現象との関係だ。主観的幸福度研究の主要な成果の1つに、人々は物質的な進歩にはすぐ適応adaptしてしまうという事実がある。このため、物質的な豊かさの増大は必ずしも幸福度の増大に結びつかない。物の所有で同じレベルの満足度を維持するためには、新しい物を増やし続けていくしかない。これが快楽の踏み車である。

過去に買ったモノはいまそこにある。買ったばかりのころに比べてその魅力は次第に薄れていく。これに対して、過去の体験はただ精神的な表象の中に存在するだけだ。場合によっては、もともとの楽しまれた出来事よりも、もっと楽しい記憶へ再形成することができる。バンボーベンの被験者の1人は、「物質的な所有物はいつしか背景の一部にとけこんでしまう。体験はまさに時間とともに良いものなる」と語っていたという。

体験は人のアイデンティティの中でより中心的な位置をしめる

人生は、彼ないし彼女の文字通り体験の積み重ねに他ならない。こうして豊かな体験の蓄積は豊かな人生を創る。同じことは物質の所有については言えない。

経験と所有がともに人々のアイデンティティに貢献する場合でも、その貢献のしかたや効果は異なる。人々が何を獲得したかは、その人々がどんな人物であるかを雄弁に語る。そそして、買い物は人々にとってしばしば、他人および自分に対する望ましいアイデンティティのシグナルになる。したがって、「物質的な」人々についてのネガティブなステロタイプがあるとき、物質的な所有物の獲得と誇示は、このネガティブなステロタイプを自分自身にあてはめてしまうことになる。さらに言えば、体験は人のアイデンティティに対してより好ましい形で貢献する。なぜならば、物質的な所有に比べて、体験はよりパーソナルな成長にかかわる内的な目標を満足させるし、それゆえより自己実現的(マズロー)だからだ。

体験はより大きな「社会的価値」をもつ

最後の理由は、社会的価値だ。体験型消費は、それに対して語りあう楽しさという点でも、良好な社会的関係を効果的に促すという点でも、物質型消費よりすぐれている。良好な社会関係は幸福度と密接な関係があることが別の研究によって明らかになっている。

ある意味では、体験型消費は物質型消費に比べて本来的に社会性が高い。たとえば「夕食、ダンス、デート(体験型消費)」と「シャツ、セーター、銀食器(物質型消費)」を比べれば自明であろう。さらに言えば、体験型消費は「発端、経過、結末」という物語的な構造をより多く持つ傾向にあり、聞き手にとっても語り手にとっても、体験について語りあうことは物質的な所有について語りあうよりも楽しい会話になる。そして「物質的」であることはネガティブに、「体験的」であることはポジティブに感じられるものなので、体験について語ることは、物質について語ることよりも、その語り手の姿をより好ましい光をあてて描きだすことになる。

バンボーベンの実験によれば、体験型消費について語り合うよう指示された学生たちは、物質型消費について語り合うよう指示された学生たちに比べて、お互いをより好ましく感じ、語ることをより楽しみ、お互いの友好関係を深めることにより興味を示した。」

ホリスティックなアプローチで幸福を考える

以上がバンボーベンの考察である。私にとって最も興味深いのは、体験型消費が、幸福の二つのタイプのうち一つのタイプの代表的な例であるということだ。

二つのタイプとは、以前にこのブログで紹介したカーネマンの言葉を借りれば「遡及評価」の幸福と「リアルタイム評価」の幸福だ。体験型消費の幸福度は、過去の消費を思い出しながら回答するから、典型的な「遡及評価」である。カーネマン」は、「遡及評価」は「リアルタイム評価」の不正確な再現であるとしている。しかし、幸福度を研究する人たちの中にもさまざまな考え方があり、この二つは別のものではないかという考え方もある。

ベンサム流の快楽や効用としての幸福とは別途、アリストテレスに由来する「エウダイモニア」(徳と一致した幸福)があるのではないか。それは、快感の程度を正確に測定する(極端に言えば幸福感に関係する脳波や体内化学変化を連続的に測定する)というやり方では測定できず、一見素朴で不正確にすら見えるアンケート調査方式でこそ現れるのではないか。少なくとも私はそのように考える。

科学的アプローチというと、どうしても「要素還元的」なアプローチをイメージしてしまうが、実は「全体論的(ホリスティック)」なアプローチではじめて見えてくる真実がある。「エウダイモニア」の幸福はまさにそれだ。体験型消費が私たちにもたらす幸福は、ホリスティックな幸福だ。
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消費社会のハムレットに福音

To Do or to Have? That Is the Question.


言うまでもなくシェイクスピアの『ハムレット』のセリフ「To be oe not to be…」のパロディだ。コロラド大学のリーフ・バン・ボーベン(Leaf Van Boven)とコーネル大学のトーマス・ギロビッチ(Thomas Gilovich)共著の論文のタイトルである。かつて拙著で簡単に紹介したことがあるのだが、ここで詳しく紹介したい。たいへん面白い論文だ。消費と幸福の関係に興味ある人は読むと必ず参考になると思う。
http://psych.colorado.edu/~vanboven/vanboven/publications_files/vb_gilo_2003.pdf

モノからコトへ

消費社会論では、かねてから「モノからコトへ」ということが言われてきた。衣食住のベースが満たされ、耐久消費財がひととおり普及してくると、人々の欲望はモノよりもコトへ向かう。日本でいえば、高度成長期の終わった1970年代が転換点だった。やや脱線話だが、哲学者の廣末渉が「物的世界観から事的世界観へ」と提唱したのが1975年。学者といえども消費社会の一員だから、感度の高い人ほどいつのまにか大衆心理とシンクロするのだと思う。ちなみに「モノからココロへ」という標語もほぼ同時に登場した。世論調査で、モノの豊かさよりココロの豊かさを求めたいという人が多数派を占めたのは70年代末である。

ボーベンの論文(論文は共著だが以下では代表してボーベンのという)では、コト消費とモノ消費は「体験型消費experiential purchases 」と「物質型消費material perchases」と対比される。なぜコト(体験)なのか。モノに飽和したからコト(体験)へ向かうという言い方もできるのだが、アメリカの心理学では、後者のほうが「幸せになる」という仮説に立った研究が行われてきた。ボーベンは、従来の研究を踏まえながら、新たに4つの実証的研究を行って、仮説の正しさを確かめる。さらに、なぜコト消費(体験型消費)のほうが幸せになるのかという問題について考察する。

今回は4つの実証研究のうち最初の2つについて紹介しよう。どうやって検証したのかということも(私に読みとれた範囲で)紹介したい。それは実は専門外の読者に対してこそ重要な情報源だと思うからだ。納得度の高まることもあるし、腑に落ちないこともあるのだが、いずれにせよ、理解が立体的になる。自分自身がそうであった。

学生を被験者とした研究

そもそも、体験型消費のほうが物質型消費よりも人を幸せにするということは、どうやって確かめたらよいのだろうか。最もシンプルなアプローチは、人々に実際に聞いてみることだ。

第一の研究の被験者はブリティッシュコロンビア大学の在校生97人。体験型消費について聞かれるグループと、物質型消費について聞かれるグループの二つにランダムに分けられる。前者のグループに人たちは、「100ドル以上使った最近の体験型消費」について質問される。体験型消費とは、生活体験を得ることを第一の目的としてお金を使うこと。生活体験は、あなたが個人的に接する又はその中で生きる出来事又は一連の出来事とされる。後者のグループの人たちは、「100ドル以上使った最近の物質型消費」について質問される。物質型消費は、物質的な所有を第一の目的としてお金を使うこと、物質とは、あなたが取得しあなたの所有物として保ち続ける、形のある対象とされる。

被験者は、「その買い物について考えるとき、あなたをどの程度幸福にするか」「あなたの生活上の幸福にどの程度貢献したか」「その買い物は支払うに値したか」「別の何かにお金を使うほうがよかったか」といった質問に対して、9段階で評価して答える。たとえば、「全く幸福にならなかった=1点」から「きわめて幸福になった=9点」といったように。その平均スコアを出して評価する。

結果は次のとおりで、体験型消費のほうが幸福になっているし、お金の使い方としての満足感も高い。
・それについて考えることで幸福になる
  体験型7.51  物質型6.62
・生活の全体的な幸福に貢献
  体験型6.40  物質型5.42
・支払うに値する
  体験型7.30  物質型6.42
・別の何かにお金を使う方がよかった
  体験型3.77  物質型4.52

具体的に何を体験型消費とし、何を物質型消費とするか、回答者の記述で二つがオーバーラップしてしまうことはほとんどなかった。つまり、この区別は人々の日常生活に根差していることを示唆している。

体験型消費の具体例で最も多かった「(コンサート、スキ―スロープなどの)入場料・手数料」について、これを物質型消費として記述した人は1人しかない。逆に、物質型消費の具体例で最も多かった「洋服や宝石」について、これを体験型消費として記述した人は1人しかない。

美容スパ、美容製品:体験型4%/物質型2%
本、CD    :体験型―/物質型2%
洋服、宝石     :体験型2%/物質型62%
夕食         :体験型17%/物質型―
入場料、手数料  :体験型43%/物質型2%
テレビ、ステレオ、コンピュータ:体験型―/物質型26%
旅行         :体験型32%/物質型―
そのほか      :体験型2%/物質型6%

全国調査

上記は学生をサンプルとしているので、どのくらい一般的にあてはまるのか不明だ。男女、老若、黒人と白人、お金持ちと貧乏人、こうした違いをこえてあてはまる真実なのだろうか。

そこで二番目の研究では、無作為抽出の1279人のアメリカ人を対象にした電話アンケート調査をもとにする。年齢は21歳から69歳、時期は2000年の11~12月。回答者は、世帯内で第一次的に資産運用の決定権を持つ人。およそ180項目におよぶこの調査のほとんどは、資産運用における態度や行動に関するものというから、もともとは幸福度を聞くための調査ではなくて、相乗りさせてもらったのであろう。調査項目の終わりに近いところで、回答者は、「あなたの幸福を増大させるという目的で」生涯において行った「体験型」および「物質型」の消費について考えるよう質問される。「これら二つの消費について考えるとき、どちらがよりあなたを幸福にしましたか」。回答者は、「体験型消費」「物質型消費」「わからない(not sure)」「答えかねる(decline to answer)」のいずれかを選ぶ。

まず全体の結果はやはり予想通りで、体験型消費のほうが幸福になったという人が半数以上をしめた。

体験型消費のほうが幸福 57%
物質型消費のほうが幸福 34%

この調査の本来の目的である属性による違いはどうだろうか。年齢、雇用状態、人種、性別、婚姻状況、政治的意見、宗教、居住環境について分析されたが、大きな傾向に違いはなかった。いずれにおいても、体験型消費のほうが幸福になったという人が多いのである。

しかし、まったく違いがないということではない。女性、若者のほうが、そして田舎よりは都市や郊外に住む人の方が、若干ではあるが、より多く体験型消費のほうが幸福になったと答えている。

さらに、よりつっこんだ属性別分析からは注目すべき結果が出る。回答者の収入レベルは体験型消費を選ぶかどうかに明確に相関している。最も低い収入レベル(年収0-15千ドルと15―25千ドルのクラス)では、体験型消費と物質型消費はほぼ同じくらいの割合で選ばれている。収入が高くなるほど体験型消費を選ぶ傾向が高くなる。

exvsma.jpg


同様のパターンは教育レベルの違いでも現れる(教育レベルと収入レベルは強く相関している)。収入が低ければ、まずはベーシックなニーズを満たすことへの関心が高いから、物質型消費のほうが幸福になると答える傾向にあるわけだ。

地方創生は「寄り合い」から

戦前の日本は封建的で家父長的だったが、戦後の日本は民主主義の国家になった。私が小学生のころ、というのは昭和30〜40年代ということだが、こういうすこし紋切り型の歴史観を教えられてきた。おそらくこれは戦後の占領下の教育の延長だったのだろう。

その場合の民主主義とは、多数決で物事を決めることだった。ホームルームでは挙手で決を採るということが民主主義のレッスンとして行われた。小学6年生のときには、子どもによって構成される「児童会」の会長を投票で決めるという制度が始まった。中学や高校の生徒会の子ども版である。子どもに自由に立候補させ、公約のようなものを掲げさせ、論戦のようなこともさせる。ポスターなども作って選挙活動をする。みんなで投票して会長を選出するというわけだ。

全員一致から全員納得へ

多数決は万能ではない。むしろ、あまりよい合意形成の方法とは言えないと私が気付いたのはだいぶん後のことである。ひところ私は、選挙のたびに「平均知性低下の法則」という説で相手をケムに巻こうとしていた。人間は多様であるから、生理的な欲求や憎悪の感情など低いレベルの話でないと一致しない。関係者が多くなるほど、賛成意見が多くなるほど、一致点のレベルは低くなる。多数決は、賛成意見が多いほど危険なのだ。ナチス政権は圧倒的な支持を得て登場した、云々。

とくに1990年代、郵政改革をテーマにした小泉さんの解散総選挙とその大勝利あたりから、私はそういう思いを深くした。「決める政治」がキーワードになり、多数決は民意なりという紋切り型が大手をふるい始める。「小泉劇場」と同様、民主党の(今にすれば幻のような)大勝利にも、橋下さんの大阪での選挙戦の勝利も、暗く沈んだ気持ちで見つめてきた。

多数決は疑わしい。逆説のようだが、その決が多いほど疑わしいのであって、「全員一致」に至っては悪夢のような結論だと思ったほうがいい。しかし、「全員納得」という結論はありえる。全員一致と全員納得は異なる。

寄り合いの3つの特長

前回のブログでも紹介したマエカワ(前川製作所)の前川正雄さんによれば、日本人は本来、言語化される以前の感覚知を共有し、「共同体の技」にしていくのを得意としてきたという。そして日本型共同体の最たるものが「寄り合い」だという。長い時間をかけ、「皆が納得する結論」を出す。「結果、みんなが合意に達し、欧米でよくやる、相手を打ち負かすための議論では望めない質の高い成果が得られます。うちでも、寄り合いそのものといえる三日三晩の合宿をよくやります」(PRESIDENT 2012年10月29日号)。
http://president.jp/articles/-/12364

これを読んで私は、宮本常一(1907-1981年)の名著『忘れられた日本人』(1960年)を思い出した。戦前から西日本の農山村を調査してまわった体験や資料をもとに書かれたもので、宮本民俗学の代表作とされる。

その最初の二章が、「寄り合い」について書かれているのである。対馬のある村で、宮本は村に伝わる古文書を発見し、筆写のために貸してくれないかと区長に頼んだ。区長は、そういう大事なことは「寄り合い」にかけてみなの意見を聞く必要があると朝から出かけていった。ところが、午後三時を過ぎても帰ってこない。そこで宮本自身が寄り合いの会場へ行ってみると、二十人ほどが板間で話し合っている。

宮本が会場へ来る以前、この議題は次のような経緯をたどっていた。実は朝一番に話が持ち出され、「大事な書類だから皆でよく話し合おう」ということになった後、別の議題に移ってしまった。議題は他にもたくさんあるのだ。しばらくすると、古いことに詳しいある人が古文書に関係する一つの逸話を思い出した。昔、村一番の旧家で伝来の御判物を人に見せたら返してもらえなかったという。すると、それと関連するような話がいくつか出てきた。しかし結論が出たわけではなく、また別の議題に移っていった。そしてまたしばらくして、誰かが「他人に見せて役立つなら見せてはどうだろう」と発言した。すると、今度は家にあるものを人に見せたらいいことがあったという世間話がいろいろ出てくる。そしてまた別の議題に移っていく。

こうして、否定的、肯定的の両方のニュアンスの話が出たところで、本人の宮本が現れた。ある老人が「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話をきめようではないか」と発言して、みんなが宮本の顔を見る。宮本が古文書の中身のクジラとりの話をすると、またクジラとりをしたころの話がしばらく続き、一時間あまりして、ようやく「貸してあげよう」という結論に至るのでる。

この寄り合いの合議制には、三つの大きな特長がある。一つは、時間を惜しまないこと。昔は弁当を持参し、寝泊まりする者もあって、結論が出るまで続いた。「といっても三日でたいていの話もかたがついた」。二つ目に、そうして得た結論は「全員納得」の結論として大事にする。「みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった」。三つめに、話し合いといっても、どちらの主張が正しいかというような論戦をするのではない。互いに知っている事例を持ち寄るのである。「話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのだろう」。

暗夜に胸に手をおいて

冒頭に書いたように、戦後、日本人は封建的で家父長的で「遅れている」と言われた。進歩的な知識人はみなだいたいそう考えていたのである。宮本常一には、そういう風潮への反発があったようだ。西日本の農村では、「寄り合い」という独特の民主的な合議制がとられていたことを強調した。

「寄り合い」というと何か主体性が薄いように思えるかもしれないが、それは「もたれ合い」ではない。宮本は長野県諏訪湖のほとりの村の知人から次のような話を聞いたという。戦後の農地解放の話し合いでみながてんでに勝手な主張をしているときのことである。その知人が「たった一人暗夜に胸に手をおいて、私は少しも悪いことはしておらん。私の親も正しかった。祖父も正しかった。私の家の土地はすこしの不正もなしに手に入れたものだ、とはっきりいいきれる人がありましたら申し出てください」と言ったら、みんな口をつぐんでしまった。以後、「暗夜に胸に手をおいて」と切り出すとだいたい解決の糸口が見えたというのである。

宮本はこれに関連して、自分が子どもの頃に村の寄り合いで体験したことを書いている。大きい声で何かをしきりに主張している男がいたが、一人の老人の「足もとを見てものをいいなされ」の一言で男は黙ってしまったというのである。

「暗夜に胸に手をおいて」の話など、遊女をかばった新約聖書のイエスの言葉のようで面白い。「足もとを見て」も、私などのようなおっちょこちょいは、50代になった今ですらどきっとする寸言だ。いずれにしても、日本人の「寄り合い」という合議制が、単なるもたれ合いやなれ合いではなく、主体性や倫理性に基づいたものである(あり得るか)ということがよくわかるエピソードだ。

むしろ「下から目線」で

現在、政府は「地方創生」を提唱している。「創生」とはどういう意味であろうか。従来はよく「地方再生」と言われたものだ。もしかして、「再生」ではなまぬるい、今の地方の現状を思えば、根こそぎ創りなおすくらいの覚悟が必要だという意味であろうか。今の政府の動きは、増田寛也さんの「自治体消滅論」が引き金になっているようなところがあるので、そんなニュアンスである可能性がある。1980年代末、竹下内閣のときに「ふるさと創生」事業というのがあった。より直接的には、そこからきているのかもしれない。

いずれにせよ、私は「創生」より「再生」という言葉のほうが好ましく思う。地方には再生すべき良いものがあるという謙虚な姿勢は大事だ。国会や知識人の議論を見ていると、「ばらまき予算ではいけない」「地方の自立が必要だ」などといったことが相変わらずしたり顔で議論されている。要するに「上から目線」である。地方は(都会に比べて)遅れているという発想は、日本は(欧米に比べて)遅れているコンプレックスの裏返しに過ぎない。

日本の地方には、世界的に誇れるものがある。「寄り合い」の伝統はその一つである。地方にまだ残る日本のオリジナリティをどう生かすかが真の問題だ。生かせなければ、日本の未来はない。残念ながら都会には日本のオリジナリティはほとんど残っていない。私たちは地方に頼るしかない。それは都会育ちの私の危機感だ。都会の人は「下から目線」で地方を見て、「教えてもらう」という姿勢にまずなるべきだと思う。

豊かな社会の進化論―「すみわけ」 

最近、前川製作所(以下、マエカワ)という会社の存在を知った。「定年のない会社」というテーマで調べているうちに出て来た名前なのだが、調べているうちに、ただものではないというか、深い哲学性に裏打ちされた会社であることを知った。

創業1924(大正13)年、製氷冷蔵業からスタート。深川の町工場だったマエカワは現在、従業員3000名。国内57拠点、海外92拠点で展開し、産業用冷凍庫では国内トップ、冷凍船用冷蔵庫ではグローバルで80%のシェアだ。

私が感じ入ってしまったのは、この会社の経営理念とされている、『「すみわけ」による無競争社会の実現』だ。マエカワはそれを実現するために、独自の技術にこだわる。

三重の成長

大量生産品になると競争は避けられないが、限定された二―ズに高い技術力で対応する作戦に出れば、結果的に競争しなくてもよい。これは普通に経営戦略用語として言えば「高付加価値化」とか「ニッチトップ」とかいうものであろう。

しかしマエカワの「すみわけ」には戦略にとどまらない哲学的な深みがある。一定の経済的な豊かさを達成した社会において、人や企業が成長し続けるとはどういうことか。そういう深い問題意識がある。創業者の二代目にあたる前川正雄さんのインタビューやコラムなどをすこし読んだだけでも、それは伝わって来る。

「すみわけ」は、ぼんやりしていて実現できることではない。他にはまねできない特長があるから居場所を確保できるのである。ではその特長はいかにして創造されるか。それは、①社員(個人)、②会社という共同体、③会社と顧客による共同体という三者の成長を重ねあわせたところに生まれる。「定年がない」ことも、人は経験を重ねるほど特長が明確になるので、それを会社の成長に生かすという関連性の中に位置づけられる。以下、前川正雄さんご自身の言葉を引用する。

「前川製作所の新入社員は全員が、3年間寮生活を通して共同体を学ぶと同時に、3年生になると自分が今後30年間は何を目指すかという論文を書いて研修を終えます。これは、自分の特長を出すことにより、所属している共同体の特長が出て、これが企業の特長となり、その結果として、すみわけの世界を作りつづけ、ハイテク技術製品を世に出すことになり、無競争社会に近づくと考えているからです。競合とのフリクションを極力減らし、その分、市場との共創にエネルギーを回そうというのが、基本戦略だからです。幸い、大量生産、大量販売の20世紀は先進国内では終わり、市場は20世紀で供給できていない技術を求めています。これは膨大な市場を形成するのでしょうが、このハイテク性を提供するためには、自社だけでなく、顧客や関係する会社を含めた共同体の中から創り出すしかありません。それは世界に二つとない智恵(技術)でなくてはなりません。」(深川高年齢者センター プラチナ・ニュース創刊号での理事長あいさつ)

3年間寮生活で「共同体を学ぶ」とは、知恵を出し合い、意見をすりあわせ、共同体の技を創造していくための訓練のようだ。イノベーションをおこしていくにあたって、個人の知には限界があるので、どう集合知にしていくかが問われる。個人の目線に即して言えば、「仕事においてある目的に向かって仲間と知恵を出し合い、何かを創造していくということは、単に生活の糧を得るだけでなく、学ぶことも多く、本来楽しいことであるはずです」(同上のコラム)ということになる。「エンドレスな人の成長」のために仲間や共同体は欠かせない。

今西進化論の「すみわけ」

前川さんは、若いころから禅にひかれたことに関係して、西田哲学にも言及されている。「禅とは自分を無にすること。自分が見たものをそっくりそのまま、相手に伝える。西田幾多郎のいう純粋経験の交換であり、これこそが日本の禅の精神です」。
http://president.jp/articles/-/12364

マエカワの経営理念は禅や西田哲学に一脈通じるところがあるようだ。しかし「すみわけ」を標榜しているという点では、ここで今西錦司の進化論との関係に触れるべきだろう。西田幾多郎と今西錦司は広い意味での「京都学派」に属する。「京都学派」の一つの大きな特徴は、西洋の学問の紹介や後追いではなく、西洋と東洋を融合しながら、独創的な学問やオリジナルな思索を追求した点にあると言えるだろう。

今西進化論などとも言われる今西の「すみわけ」理論は、『生物の世界』(1941年)に詳しい。今西は、ダーヴィン進化論の「自然淘汰」「適者生存」「突然変異」などに真正面から反対を唱えた。

ダーヴィン進化論では、個体はつねに厳しい生存競争にさらされている。進化の出発点は個体の「突然変異」だ。環境に対してより優れた適応能力をもつ個体が結果的に生き残り(適者生存)、他は淘汰されて消え去る(自然淘汰)。

しかし今西によれば、生物の個体は無益な抗争を避けることを行動の大原則にしている。渓流の石を持ち上げて裏返すと、うじゃうじゃといろんな生き物がうごめいている。彼らは闘争しているのではなく、すみわけているのである。

すみわけは、同じ種の個体同士が共同生活するためにも行われるし、異なる種が共存するためにも行われる。また「縄張りを守る」といように空間的なすみわけもあるし、同じ場所でも利用する時間帯を分けるすみわけもある。同じ獲物をねらっていながら、食する場所が違うというようなすみわけもある。

今西によれば、ダーヴィン進化論は自然観察によって得られた事実ではない。すべてを「個人」とその「競争」から考えないと気のすまない西洋人特有の神話から来ているのかもしえないとさえ言う。「突然変異」が飛躍的な進化を牽引するという考え方も、個人主義的な思いこみにすぎない。今西進化論では、飛びぬけた個が全体をリードするのではない、変わるときは、全員がいっせいに変わるのである。

ダーヴィン進化論あるいは西洋的発想では、世界は多様な個が競争・闘争しながら時に和平協定を結ぶような世界である。これに対して、今西進化論では、本来は一つであった全体が分化していった結果が世界の多様性である。本来一つだったのだから、平和にすみわけるというのは当然の結論なのであった。

豊かな社会では何が進化するのか?

ダーヴィン進化論は、マルサスの『人口論』に影響されたという説が発表当初からあったそうだ。アダム・スミスの『国富論』の「自由競争」などにもあるいは影響されたのかもしれない。逆にマルクスの階級闘争史観はダーヴィン進化論の影響を受けたという説があるし、スペンサーの社会進化論は明確に影響を受けている。

いずれにしても、人間社会の見方として、「競争」か「すみわけ」かという二つの見方がある。西洋の経済学者や知識人には、進化・進歩や成長のためには「競争」が必要であり、できるだけ自由に競争するほうがよいのだ、そうでなければ社会は停滞すると思い込んでいる人が多い。また、イノベーションは「突然変異」のように天才的な個人がけん引するものだと思い込んでいる人が多い。

そして、日本でもこれに追随する人は多い。しかし本当にそうなんだろうか。「すみわけ」理論による進化と成長の理論もあってよいはずだ。ここにおいて、日本人、東洋人ならでの貢献があるかもしれない。

また、「すみわけ」の中での進化と成長は、必ずしも機能的な面だけではないだろう。今西錦司は、生物の進化の中には、色や柄の多様性、形態のスマートさなど、どう見ても機能的にあまり意味のないバリエーションの変化もあると言う。美的な意味ですみわけていくというのが進化の最後の段階かもしれない。
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