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成長の限界を越えて

経済成長率という物差しには、さまざまな方面から限界が指摘されている。まず、グローバル経済の時代では、経済成長率が高まっても国内の雇用が増えるとは限らない。さらに、幸福感の問題もある。経済的な豊かさは一定のレベルを越えると幸福感の増大とほとんど無関係になる、下手をするとマイナスに働くということを検証したデータがある。最後に、決定的な問題として、環境や資源の制約がある。全世界がアメリカ人と同じ生活をするためには地球が5個必要という試算があるように、欲望の大きさは無限でも地球の大きさは有限なのである。

子どものときには背が伸びるのが嬉しいものだが、無限に背が伸び続ける人はいないし、そんなことがあるとしても嬉しいことではないだろう。経済成長も無限に続く(べき)ものではない。成長の果てには停滞、飽和の時期が来る。さて、ここで問題がある。この成長の果ての社会を私たちはどう思い描き、どう言い表わしたらよいのだろう。

私たちにとって言葉は意外に大きな力を持っている。無限の経済成長がナンセンスであることがわかったとしても、それに代わる状態が「停滞」「飽和」といった言葉でしか表わせないとしたら、元気が出ないであろう。「成熟社会」や「定常社会」、「持続可能性」といった言葉のほうが良いと思うが、やはりパンチを欠いている。「成長」という言葉のワクワク感にはとてもかなわないのではないか。

新しい時代の姿を描くとき、そもそも成長という言葉はもう使えないのか。この点に関係して、『つながりを取りもどす時代へ』(大月書店、2009年刊)という本に、面白いエッセイが載っていた。この本は『リサージェンス』という40年以上の歴史を持つ雑誌の記事からのアンソロジーで、私が面白いと思ったのは、『賢明な成長』と題されたエッセイだ。著者のステファン・ハーディングは生態学者のようである。ネットで検索すれば原文(英語)を無料で読める。

まずエッセイの概要を紹介しよう。この著者は若いころ、列車のなかである紳士とたまたま乗り合わせた。最初はなごやかに話していたが、相手が経済学者であると知り、何気なく「成長の限界」という概念に触れたとたん、この紳士はものすごい剣幕で反論し始めたという。その後も著者はいろいろな人たちに成長の限界についてわかってもらおうとしたが、反応はむなしかった。「というのも、『成長には限界がない』という認識は、私たちの考えかたのあまりにも奥深くに根づいているため、これを断ち切るのはまず無理だと思われるからです」。

そこで著者は最近、別の戦略を用いるようになった。成長の限界について話すのではなく、二種類の成長、つまり賢明な成長intelligent growthと自滅的な成長 suicidal growthとを対比する。これは効果があったという。自滅的な成長は、要するに今のやり方であり、環境破壊を通してやがて人間そのものに悲劇をもたらす成長だ。一方、賢明な成長の戦略は、成長すべき望ましいものはたくさんあると考える。それはたとえば再生可能なエネルギーの創出であり、土壌の回復である。社会的、精神的な領域で成長すべきものも多い。それは公正さや社会正義であり、社会のつながり、活気に満ちた地域経済、地元に根付いた音楽や芸術、詩、宇宙の深遠な神秘性を体感する能力だ。著者はこのエッセイを次のように結ぶ。「…電車の中で経済学者に出会ったとしても、成長論に異見を唱える古いやり方は忘れること。ただ、『賢明なもののほうが自滅的なものより好ましいと思いませんか?』と尋ねればよいのです。そうすれば、古い考え方の一片がぽろりとこぼれ落ちるのが見えるでしょう」。

この戦略を著者は「苦しまぎれの戦略」と言っている。本当は正面から成長の限界を言いたいところだが、それでは通じないので、とりあえず成長という言葉までは譲歩したという意味であろう。しかし、苦しまぎれであろうと何であろうと、この戦略は、成長という言葉に適切な居場所を与えることになる。私はそこに注目したいのである。成長という言葉を、旧来のエコノミストや政府とは違う意味で使う道を切り開くことになる。

問題は、成長への憧れが物質的な成長に適用されてしまうことなのである。無限に背が伸びることを希望する人間はないないが、能力を向上させ、感情や精神をより豊かにしていくという意味では、無限に成長したいと思うほうが普通であろう。その意味では、無限の成長への憧れは幸福の源泉と言ってよいし、すべての文化、芸術、宗教の源泉と言ってよいだろう。

『賢明な成長』の著者は、先進国の住民は「少ないものでうまくやっていく方法」を学ぶ必要があると言う。実際問題として、先進国の消費者はもはやモノの消費には飽和感を感じていると思う。物質的には私たちは限界を知り、足るを知らなければならない。しかし私たちの能力を発揮する楽しさ、社交の楽しさ、生きる喜びなどの追求に限界を設ける必要はない。
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