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マズローの自己実現社会への見取り図

三菱総合研究所の『フロネシス』というシリーズ書籍の作成に私は創刊以来関与している。現在の最新刊第10号『シニアが輝く日本の未来』では、これからのシニアの生き方が心理学者・マズローの欲求段階説で絵解きしている。以下は、シニアに限らず、成熟した社会での消費のあり方を考えみたい。

マズローは、人間の欲求を「生理」「安全」「愛・所属」「尊敬」「自己実現」の5段階に整理した。これらの欲求は低次から高次へと階層化されており、ある段階の欲求が満たされればその上の段階の欲求が目覚めるという関係にある。

最終段階に置かれた自己実現には、人格の完成とか高度な人間性の発揮というニュアンスがこめられている。自分勝手や利己主義とは正反対の意味で、むしろ狭い自己の殻を破るとか、本当の自己に目覚めるという言い方のほうが近い。それ以前の哲学や宗教で言えば、真善美の達成のようなものだ。物質的な欲求から精神的な欲求へというステップアップとも言えるだろう。

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こういうステップアップは、かつては一部の恵まれた階層にのみ許された特権であった。しかしマズローは、自己実現を誰でも達成できる目標として論じている。それは、「黄金の50年代」と呼ばれた1950年代のアメリカを背景にして初めて可能なことだった。マズローが自己実現を提唱した「人間性の心理学」の初版は1954年。この時代のアメリカ社会は人類史上ではじめて、大衆的なレベルでの物質的豊かさを実現した社会だった。当時の郊外で急増した新中間層の間には、マイホーム、マイカー、テレビや冷蔵庫などの家電のある生活が急速に普及していった。まさに現代的な文明生活の原型とも言うべきものができあがったのである。

1950年代アメリカを背景に現れたユニークな思想はマズローの自己実現だけではない。たとえば、デービッド・リースマンの「孤独な群衆」(1950年)、ライト・ミルズの「ホワイトカラー」(1951年)、ウィリアム・ホワイトの「組織の中の人間」(1956年)など、アメリカ社会学の名著。また、経済学者ガルブレイスの「ゆたかな社会」(1958年)もこの時代に生まれた。

これらの名著は、アメリカの物質的豊かさの限界にも鋭く切り込んでいる。大衆的なレベルでの豊かさを実現した社会を見ていたからこそ、その限界を乗り越え、高度な欲求へのステップアップを見通すことができた。ヨーロッパや日本がそういう豊かさのレベルに達するのは1960~70年代だ。日本の世論調査で、「心の豊かさ」が「物の豊かさ」をうわまたったのは1970年代末だった。アメリカはいちはやく1950年代にそのレベルに達していたわけである。

そこで、アメリカが真っ先に達成した消費社会の本質と限界、限界を超える道筋をマズローの欲求段階説を借りて考えてみたい。消費社会とはまず、生活に必要な物資が安価になり、世の隅々まで行きわたった社会を意味する。大量生産・大量消費の社会だ。マズロー的に言えば第一から第二の段階、衣食住に代表される「生理」「安全」欲求が満たされる社会である。

消費社会での欲求は、やがてマズローの第三・第四段階、「愛・所属」「尊敬」へ向かう。たとえば子どもにとってゲームや若者にとってのファッションはしばしば、それ自体がほしいというより、それなくしては仲間の一員として認めてもらえないという意味で必需品だ。また、より広い家、よりかっこいい車、より高価なブランド品もしばしば、世間から尊敬を得るための手段である。

消費社会の欲求は、こうして高度化するほど実際的な必要から離れる傾向がある。広告や頻繁なモデルチェンジによって消費者の欲求をたえず刺激し、作り出していかなければ、モノは売れない。一定期間がたったら故障したり壊れたりするように最初から設計する「計画的廃棄」という考え方が、ある時期のマーケティングでは公然と主張されていた。修理するよりいっそ買い替えるほうがトクだと消費者に思わせることも重要だった。消費者からすれば、本当にほしいのかどうかよくわからないものを次々と買うことになる。この悪循環のような状況を逃れるヒントになるのが「自己実現」欲求だ。

マズローは、第一から第四の段階までの欲求と、自己実現の欲求との間には質的な違いがあるという。それは欠乏動機に対する成長動機、欠乏欲求に対する存在欲求だ。自己実現欲求を中心とする社会は、それまでの消費社会とは質的に異なる、まさにポスト消費社会である。ここでは「体験化」「個別化」「地元化」という三つの角度からその質的変化を考えてみよう。

まず、「体験化」だ。自己実現欲求は、「欠乏を満たしたい」ではなく、「成長したい」という欲求だ。食欲・性欲はもとより、見栄やプライド含めて、欠乏欲求は満たせば 満たすほど減っていく。空腹時のごはんはおいしいが、二杯目、三杯目 と増えていくにつれ、おいしさの感動は減っていって、やがて飽和してしまう。経済学用語で言えば、限界効用は逓減する。

しかし、成長欲求は、満たせば満たすほど、欲求が増して行く。消費行動で言ば体験型消費と呼ばれる分野の多くがこれにあてはまる。ミハイ・チクセントミハイの「フロー体験」も同じものを指しているのだろう。旅行やスポーツ、山歩き、釣り、DIY、陶芸・絵画・デザインなどの趣味などには、経験を積むことにより何らかの意味での上達がある。上達するほどより高い境地に行くので、より高い欲求が生まれるのである。

次に、「個別化」。ただし、他人と比べるための個性や、趣味や好みのレベルの個別性ではない。そういう意味での個別性に 対応した商品・サービスなら、これまでの消費社会でも「多様性」の名のもとに提供されてきたし、現在も、たとえばITの進歩で「マス・カスタマイゼーション」が急速に実 現しつつある。しかしこれは、「他ならぬこの私」という個別性ではない。自己実現で問題になる個別性は、唯一絶対の個別性だ。教育、医療、介護、福祉など、人間そのものを対象にしたサービス分野ではとくに期 待されるところだ。

たとえば、医者が患者を「個体」ではなく「症例」と して見る場合なら、「70%治る」というデータは大きな意味をもつ。しかし患者にとっては、100%か0%の二つしかない。患者としては、治るか どうかもさることながら、そもそも唯一つの自分に向き合ったサービスがほしいわけである。そこでは、遺伝子医療のような西洋医学アプローチによる個別化と同時に、1人の人間を要素の集合ではなく1つの全体的人格と見る東洋医学のセンスが活躍するだろう。

唯一つの自分に向き合ったサービスがほしいという欲求は、実はファッションのような領域でも存在する。「この服は小柄な人には似合う」という場合、70%の人に当てはまるするなら相当程度に真実だ。これはこれで有益なことだ。しかし「他ならぬこの私に似合う服は何か、私らしさを表現できる服は何か」を追求するとき、確率論はしょせんむなしい。自分が30%の側にいるなら、自分にとっての価値は0%のはずだ。にもかかわらず、「こういう人にはこれが似合う」という定義に従属してしまうとすれば、それは結局、多様化という名の画一化に過ぎない。

三つめに、「地元化」である。マズローの観察では、自己実現しているほど自己中心性が減り、協同社会感情が高まる。こうした意味での自己 実現は、身近な隣人や地域の中でこそ発揮される。冒頭で紹した『フロネシス10号・シニアが輝く日本の未来』では、最後の「自己実現」段階で2つの事例を紹介した。 一つは、「隣人祭り」というコミュニティイベントを自分の住むマンションで企画・実施している方の例。もう一つは、郷土史を住民と一緒に編纂し子 どもたちに伝えている方の例だ。

ところが、校正ゲラの段階で、ある人から「隣人祭りや郷土史偏差が自己実現なのか?」と懐疑的なコメントをもらっ たのを覚えている。おそらくその人は、もっと自己を強く打ち出した活動、たとえば何かの記録を更新するとか、作品を残すとかいった活動をイメージ したのであろう。これはありがちな偏った見方だ。自己実現と他者実現は表裏一体なのである。

以上は消費の変化を中心に書いてきたが、一方で自己実現社会では生産と消費の垣根が限りなく低くなっていくだろう。自己実現とは、何かを外から与えられて充足する欲求ではなく、何かを作り出すこと、与えることで充足される欲求だ。となれば、かつてガルブレイスが「新しい階級」と呼び、最近ではリチャード・フロリダが「クリエイティブ・クラス」と呼んだ階層が最も効率的に自己実現していることになる。生産活動、つまり仕事自体が楽しいと多くの人が感じられる世の中が自己実現社会のゴールだろう。
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