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宇宙・パスカル・幸福

宇宙物理学者・佐藤勝彦さんの『眠れなくなる宇宙のはなし』(宝島社)の中に、人はなぜ宇宙について知りたいと思うのかという話が出てくる。佐藤さんによれば、その理由 の一つに、「周囲の世界とのつながりを通して、自分が何者なのか知りたい」という根源的な思いがあるという。そして、フランスの画家ゴーギャンの 大作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を引用していた。

これを読んで、へえ科学者もそんなふうに考えるんだと妙に感心してしまった。私は科学とは縁遠い人間だけれども、小学生くらいの子どものころから宇宙論が好きだった。まさに佐藤さんの言うように、宇宙に始まりがあるのかとか、宇宙の果てはどうなっているのかといっ た疑問と、「私とは何か」という疑問が不可分の問題に思えたからだ。

宇宙論の代表がビッグバン理論である。宇宙は誕生してから137億年たち、いまなお膨張しているという。昔、子ども向けの図鑑か雑誌に掲載されていた膨張宇宙の説明図を今でもよく覚えている。それは、風船にごはん粒をつけて膨らませる絵であった。風船が宇宙空間で、ごはん粒が星のたとえだ。風船を膨らませると、ごはん粒の間の距離が開いていく。これをもって、宇宙空間が膨張していくこと、それに伴 い、星と星の距離が離れていくこと、しかもある星から見て遠くにある星ほど速いスピードで去っていくことを説明しているわけだ。

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しかしこの絵によって私の疑問はむしろいっそう深く悩ましいものになっていった。風船の外側は(宇宙の外側)はどうなっているのか。また、そもそもこの 風船はどこから現れたのか。宇宙の始まりや果てについて、粒粒のついた風船の絵は十分に答えてくれなかったのである。

そんな私は当時、「無限ごっこ」という空想の遊びをよくやっていた。夜ふとんをかぶり、目をつぶって、宇宙のできるだけ遠いところを思い浮かべる。しか し当然、それよりもさらに遠いところがあるし、それを思い浮かべてもまたさらに遠くが・・・とこの想像の手さぐりには果てがない。これをある回数 繰り返すと、体の芯からジーンと不思議な感覚、怖いような懐かしいような感覚わきあがってくる。時間の始まりや終わりについても、同様の手順で 「無限ごっこ」をすることができた。

この孤独な遊びに熱中したのは小学生の高学年のころだったと思う。中学生になるころには卒業して、それからしばらく忘れていた。ところが、10代の終わりころにフランスの哲学者パスカルの『パンセ』を読んで、まざまざと思い出すことになった。そこには、精緻に思索された「無限ごっこ」があった。

パスカルは、幸福とは何かと問いかけながら読者を「無限ごっこ」に誘う。人は幸福 になるために健康、名誉、財産、友人、仕事、諸芸などが必要だと考え、あくせくと追求する。しかしパスカルによればそれらは、本当に大事なこと から目をそらせる「気晴らし」に過ぎない。こうした気晴らしへの心遣いを取り除いたとき、人は「自分を見つめ、自分が何であり、どこから来て、どこへ行くのか を考える」(ブランシュヴィック版143)。ゴーギャンの大作のタイトルはそもそも、パスカルに由来するのである。

こうなると人は「無限ごっこ」を始めざるをえない。そして無限の宇宙の中での自分の存在の儚さ、不可解さを思い知る。「私は、私を閉じこめている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの広大な広がりのなかの一隅につながれているのを見るが、なぜほかのところでなく、このところに置かれているか、また私が生きるべく与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠のすべてと私の後にくる永遠のすべてのなかのほかの点ではなく、この点に割り当てられたのであるかということを知らない」(194)。要約して言えば、「この無限の空間の永 遠の沈黙は私を恐怖させる」(206)のである。

しかしパスカルは一方で、有名な「考える葦」のたとえで、無限を考えている人間の偉大さを語る。「空間」ではなく「考え」に注目すると、形勢は一挙に逆転するのである。「空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ」(348)。

宇宙論にも形勢逆転の発想がある。それは「人間原理」と呼ばれる。宇宙はなぜこのようになっているの かという疑問に対して、人間が存在するのに都合の良いからと説明することを「人間原理」と言うようだ。私自身は、「人間が認識しなけれ ば、この宇宙はこういうものとして存在しない」と考えることを「人間原理」と呼びたい。

そんなバカな、人間がいなくても、というか人間が登場する以前にも宇宙は存在したじゃないかと言われそうであるが、果たしてどうだろう。人間はこの宇宙、この世界を独特の「質」的な世界として認識している。誰も認識していないとき、世界が果たして存在していると言えるかどうか。それは、認識するものと認識されるもの対立がまだない世界、存在以前の存在と言うべきものだろう。

物質のサイエンスに慣れた私たちは、「意識は脳内の現象に過ぎない」と考えがちだが、事はそう単純ではない。意識とは何なのか、科学でわかっていることは意外に少ないようだ。たとえば脳科学が進 んだ今でも、ニューロンの発火という「量」的な現象が、どうして意識という「質」的な現象になるのかのはわかっていない。物質と意識は、「存在以前の存在」から枝分かれした二つの側面であり、いずれか一方から他方を説明しきるというのは無理があるのではないかと思う。

「自分が何であり、どこから来て、どこへ行くのか」という根源的な思いに答えるためには、「宇宙は私をつつみ、私は宇宙をつつむ」という両側面からのアプローチが必要だ。物質のサイエンスと精神のサイエンスは補い合って始めて真実に近づくに違いない。


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