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共通価値の戦略はどこまで「うまい話」か

最近、いくつかの記事や資料で、CSV(Creating Shared Value 共通価値の創造)という言葉を目にした。これは経営戦略論で名高いマイケル E.ポーターの提唱している概念だ。ある記事では、CSVは「21世紀の競争戦略」であり「幸福の戦略」だと書かれていた。

経営戦略論のど真ん中で「価値の共有」や「幸福」がどう語れているのか、興味津々、ポーターの論文を読んでみることにした。原文はホームページからダウンロードできる。翻訳は『DIAMONDハーバードビジネスレビュー』2011年6月号に掲載されていた。

論文の出だしは「最近、企業は悪者にされることが多い」という嘆きである。なるほど大企業、とくにポーターが意識しているグローバル大企業にはいろいろな批判がされている。ちょっと思いつく限りでも、途上国工場の不法・劣悪な労働環境、脱税、近視眼的な利益追求、トップ層の法外な高額報酬、資源とエネルギーの浪費、地域社会の衰退、価値観の画一化、無制限な欲望の喚起、などなど。

こういう批判に答えるために、従来からCSR(Corporate Social Responsibility 企業の社会的責任)という考え方があった。企業は利益追求以外にも複数の社会的目的を追求しなければならないというわけだ。しかしポーターによれば、こういう考え方はそれほど効果的ではない。経済的目的と社会的目的がトレードオフ(あちらをたてればこちらが立たず)の関係にあるとする限り、社会的目的は利益追求の制約要因、コスト増加の要因である。こうなると経営者はできるだけCSRへの出費を減らしたいと思うであろうし、下手をすると、反社会的な利益追求の隠れ蓑、免罪符にも利用されかねない。実際、慈善活動を行いながらサブプライムローンを売りまくっていた大手銀行の例をポーターは挙げている。

これに対してポーターのCSVは、社会的価値と経済的価値には共通する領域があり、企業はここに狙いを定めるべきだという。言ってみれば「儲かるほど社会の役に立つ」、企業の成功と社会の進歩が結びつく話だ。そんなうまい話があるのだろうかという気が一瞬してしまうが、気をつけて読んでみると相応の説得力があることがわかる。

相応の説得力を感じる理由の一つは、ポーターが「価値」という言葉をきわめて明確に、言いかえれば限定的な意味で使っていることによる。ポーターは、価値とは「コストと比べた便益」であるとあっさり定義している。

これは経済的価値としてはごく普通の考え方であって、「売上ーコスト」つまり「利益」を最大化するのが企業の目的とされている。一方、社会的価値を「コストと比べた便益」と定義するのは、それほど一般的とは言えないかもしれないが、公共投資の評価の議論などでは昔から使われてきた考え方だ。もちろん、社会的便益をお金で計算するのはなかなか厄介なものだ。たとえば道路や鉄道の建設の意義は、建設コストと利便性向上の対比で判断するのだが、コストはすぐに出ても、利便性向上のほうは、どんな要素をどこまでどう入れるかによって大きく値が動いてしまう。

このようにすべての社会的価値が「コストと比べた便益」として明確に計算できるわけではない。しかし、もし明確に計算できるものだけを社会的価値と呼ぶならば、ポーターの言うように、経済的価値と社会的価値の共通領域、すなわち「うまい話」は相応に存在すると思う。たとえば企業の収益(経済的価値)と途上国の農民の所得(社会的価値)を同時に大きくする戦略だ。ポーターは、あるカカオ農園での試算結果を紹介している。企業と農家の分配の適正化を行うフェアトレードよりも、効率性や品質向上など共通価値を創造するための投資を行うほうが、互いに得をする。前者の場合の農家の所得向上は20〜30%、後者は300%だという。

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ポーターは共通価値のチャンスは先進国にも開発途上国にも等しく適用できるとしているが、よりチャンスが大きいのは開発途上国であろう。開発途上国では、衣食住から水や電気といったインフラなど基本的な生活手段がまだ圧倒的に不足している。これらの便益はお金で計算することが比較的容易であるし、量産化のメリットも出やすい。「ボトム・オブ・ザ・ピラミッド」と呼ばれる何十億人もの貧困層に向けて、共通価値の戦略は大いに活躍するだろう。ここにおいてこそ、「より安くよりたくさんのものを提供する」というポーター流の「価値」の追求が生きる。

ちなみに、企業=悪者論への弁護から始まったポーターの筆は、次第に「コストと比べた便益」の追求に優れた企業の利点を強調するようになり、最後はほとんど礼賛で終わっている。「進化した資本主義、すなわち社会目的に従った資本主義」の必要性をときながらも、共通価値の創造は結局はアダム・スミスの「見えざる手」を広義に解釈した概念であり、「利己的な行為」であるという。「あらゆる企業がそれぞれにその事業と密接に結びついた共通価値を追求すれば、社会全体の利益にかなうことだろう」。

私は、共通価値の戦略はそこまで「うまい話」ではないと思う。たとえば途上国の工場での児童労働をやめるべき理由は、端的に倫理に反するからであって、共通価値になるとかならないとかいう問題ではない。また、途上国の社会的ニーズにこたえるビジネスは、利益の最大化という目的だけで考えてしまうと、せっかくの共通価値領域をかえって狭めてしまうだろう。ソーシャルビジネスの多くは「社会貢献」をミッションとしており、利益を出すことは事業の継続や発展のための必要条件ではあるものの、それ自体が目的ではない。この程度の使命感もなく、ひたすら「利己的な行為」での利益最大化を考える経営者にとっては、残念ながら共通価値領域は有望な領域ではないであろう。

先進国市場では共通価値の戦略が生かせる領域はさらに狭いと思われる。ポーターが先進国の例で示しているのは、健康によい食品や環境にやさしい製品であるが、こういう例が他にもたくさんあるとは思えない。先進国ではニーズが多様化しているし、必ずしも簡単に貨幣価値に置き換えられない価値を求めるようになるからである。

価値という言葉には、文化、芸術、宗教の価値、人生の価値といったように、「コストと比べた便益」という明確な定義ではすくいきれない多様な意味がある。こういう曖昧さをばっさり切り捨てたところにポーターの「共通価値の戦略」の具体性とリアリティがあったわけだが、これがすべてだと思うのは行き過ぎだ。

ポーターが切り捨てた部分の「価値」を重視する企業も今後は増えていくに違いない。地域文化の発展、従業員の幸福などを事業目的の中心に据えた企業は、貨幣的な共通価値よりも精神的な共通価値を創造する。とくに先進国市場においては、こちらのタイプの共通価値戦略ほうが歓迎されるであろう。
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