アリストテレスの「よく生きる」処方箋

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アリストテレスの『二コマコス倫理学』はヨーロッパ文化の中で一番古い「幸福論」と言われる。古代ギリシアの上流階級の子弟を相手にした講義録だから、今の私たちが読んで必ずしも共感できるところばかりではない。しかし、註や解説を頼りにしんぼう強く読んでみると、面白い発見がたくさん出てくる。

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もともと私がこの本を読んでみようと思ったのは、5、6年前に経営学者の野中郁次郎先生に「フロネシス」という言葉を教わったのがきっかけだった。当時、仕事で野中先生に何回かのインタビューをした。仕掛けたのは日経新聞出版社のHさん、実際の編集やリライトは同僚のK嬢で、私はまあ同席したといった程度であったが、とても楽しい取材であった。

野中先生は、現場の知のあり方を考えていくなかで、アリストテレスの「フロネシス=実践知」とホワイトヘッドの「プロセスこそが現実だ」というコンセプトに注目されたようだ。私は早速『二コマコス倫理学』とともにホワイトヘッドの『過程と実在』を購入した。『過程と実在』のほうはあまりに難解で歯がたたず、今でも書棚で埃をかぶっている。『二コマコス倫理学』のほうは、当時会社で新しく立ち上げたシリーズ書籍の名称に「フロネシス」を採用したこともあり、何とか読み通したわけだ。

その後、私は幸福の問題を扱う心理学や経済学に興味を持ち初め、『二コマコス倫理学』は結局、何回か読み返すことになった。ここでは、現代のポジティブ心理学や行動経済学に通じる洞察として「エウ・ゼーン」「エトス」「フロネシス」の三つをとりあげ、私なりの解釈を書いておくことにする。

エウ・ゼーン―よく生きるとは、楽しく生きること

アリストテレスは幸福(エウダイモニア)を「よく生きている(エウ・ゼーン)」「よくやっている(エウ・プラッティン)」ことだ定義する。今でも英語文脈では幸福を表すのにhappiness以外にwell-beingという言い方をすることがあるが、これはアリストテレスに由来するようだ。

「よく生きる」とはアレテー(徳、卓越性)を楽しんで行うこと、実現させることだとアリストテレスは言う。幸福な人は、楽しんでよいことをする。快楽と善が一致する。たとえば正しいことをしていても本音ではズルしたいと思っている人、親切にしていても実は下心ある人の心は苦しいだろう。そういう人は、本当の意味での正しい人、親切な人とも呼べない。

また、人間のすぐれた能力を磨く上でも、快楽のはたす役割は大きい。学問、芸術、技能、スポーツ、何であれ、楽しんでやっているほど上達する。いやいやすることは上達しない。好きこそ物の上手なれを生きる人が幸福な人だ。このへんの明朗な人生観は、幸福感の高さを人格や能力の向上と結びつけるポジティブ心理学を彷彿させる。

エトス―今からでも遅くない?第二の本性の作り方

さて、こうなると、人生において何を快とし何を苦とするかということが決定的な重みをもつ。どうしたらよいことを好んで選び、楽しんで行うような人間になれるのだろうか。

アリストテレスは、三つの可能性をあげている。「善きひとになるのは、一部のひとびとの考えによれば本性に、他の一部のひとびとによれば習慣づけに、また他の一部のひとたちによれば教えによる。」今風にいえば、遺伝か、生育環境か、教育かということであろうか。何が良いことなのかを教えることはそんなに難しいことではない。難しいのは、自ら 好んで、あたかも本能のおもむくままであるかのように行うことだ。しかしもちろん、人間にそういう本性、本能があるわけではない。アリストテレスの結論は、よき人はよき習慣づけによって作られるというものだ。

習慣づけによって人は、言ってみれば第二の本性を作る。それがアリストテレスの言うエトス(倫理的性状)だ。エトスは本能のように変えられないものではないが、ちょっとやそっとで変わるものではない。たとえば幼い頃に身についた好みや行動パターンは簡単には変わらない。アリストテレス自身、小さい頃の習慣づけがすべてを決めるとか、普通の人は罰則という形でよい行動に導いていくしかないなど、身も蓋もない言い方をしている箇所もある。

しかし一方で、今からでも遅くはない(?)と勇気づけてくれる箇所もあるので、そちらに耳を傾けよう。それはよいエトスが形成されるプロセスを説明しているところだ。人は、よい人間だからよい行いをするのではない、よい行いによってよい人間になる。これは肉体に備わった機能とは全く異なるというのである。「見る」という機能は最初から目に備わっていて、それを使用すればよい。所有しているものを使用するのである。しかしよいエトスは、使用することによって所有することになる。最初は多少無理した行いであっても、繰り返しているうちに習慣となり、やがて悦んで行うようになるというわけだ。

フロネシス―「わかる」と「できる」の間には深い谷間がある

アリストテレスの幸福論でエトスと同時に重要なのがフロネシス(知慮、実践知、知恵)である。いわゆる頭のいい人が、必ずしも人生に有用な判断をできるとは限らない。また一般論をわかっていても、実際の行動に反映できるとは限らない。「よく生きる」ためには、具体的で個別的な判断にすぐれていなければならない。そういう知性の働きがフロネシスだ。単に知っているのではなく、それを実践しうることによって、はじめてフロネシスある人と呼ばれる。

フロネシスに欠けた人の典型が、「わかっちゃいるけどやめられない」人たちだ。人はしばしば、自分の幸福にとって有害だとわかっていながらも、やめられないことがある。飲み過ぎ、食べ過ぎ、喫煙などの悪弊はその典型だろう。性的誘惑に弱いとか、お金に釣られてしまうとかいうこともあろう。腹をたてるのはよくないと知りながらたててしまうなどのこともあろう。悪いと知りながら犯罪を犯してしまう人もいるだろう。

アリストテレスはこのような人たちを、根っからの悪人である「放埓な人」とは区別して「抑制力のない人」と呼ぶ。抑制力のない人は、立派な法制を持ちながらそれを役立てられない国民のようなものだ。一方、根っからの悪人とは、法そのものが劣悪な国のことだ…。幸福を目指しながらしばしばそれに反する行いをしてしまうという人間行動の非合理性への洞察は行動経済学に通じると言えるだろう。

ではフロネシスはどうやって身につけるのだろうか。数学の若い天才はいても政治に若い天才はいない、フロネシスには経験が必要だとアリストテレスは言う。つまり、エトスと同様、フロネシスも実際に判断を重ねるなかで習慣化され、形成されていく知的能力なのであろう。

エトスにしろ、フロネシスにせよ、日々の行いをあきらめずに重ねていけば幸福に近づくことができるとアリステレスは語っているように思える。
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