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遠野物語の現代性―高齢社会の死生観

「老年学(ジェロントロジー)」という学問分野がある。私も編集に携わっているシリーズ書籍『フロネシス』で登場してもらった秋山弘子先生によれば、かつて老年学のメインテーマは平均寿命を如何に伸ばすかだった。しかし今や発想は量から質へ移っている。単に長生きするだけでなく、如何に質の高い生活を維持するか。身体的にできるだけ自立し、社会的な役割を持つ、そういう期間を如何に長くするかというわけだ。1987年にアメリカの「サイエンス」誌で「サクセスフル・エイジング」という概念が提案されたのが転機になったという。

こうした研究は、高齢社会における幸福度を高めるのに大いに役立つであろう。しかし、高齢社会の幸福論にはまだここから先のテーマもある。いかに高齢期のQOLを高めても、誰でもいつかはこの世から去る。

老年学から死生学へ

ここで登場するのが「死生学(サナトロジー)」という学門だ。歴史家のフィリップ・アリエスがかつて明らかにしたように、近代社会は死の問題をできるだけ見えないところに隠そうとしてきた。一方、宗教学者の島薗進の『日本人の死生観を読む』によれば、その反動からか、ホスピス運動を背景に1960年代のアメリカやイギリス、そして70年代の日本で死生学が台頭する。

島薗進は、死生学や死生観への関心の高まりの背景は高齢化だけでは説明しきれないとし、死生観という言葉の発明された日露戦争前後までさかのぼって考察する。これはこれでとても興味深いアプローチだ。しかし私は、やはり高齢社会との関係に注目したい。これから高齢者はますます増えて、関心を持つ人のすそ野がますます広がっていく。

高齢社会は、年間にこの世を去る人の数が、この世に誕生する人より多い社会でもある。以下は2050年までの10年ごとの「出生数」と「死亡数」の予測だ。中位予測で単位は千人である。

2011年 出生1071 死亡1264
2020年 出生836 死亡1435
2030年 出生749 死亡1610
2040年 出生667 死亡1619
2050年 出生557 死亡1590

これを見れば、2020~30年代に、死生観の大きな革新が起きても不思議ではない。

宗教は信じないが霊魂は信じる?

もっとも、死生学は老年学に比べると、いろいろ難しい問題を抱えている。死生観は宗教と深く関係するし、いわゆる科学的な検証にはなじまない。一人の人が、どのような宗教的信念に基づき、どのような死生観を持っているかということは、余人の簡単にうかがい知れることではないし、客観的に証明するのも難しい。それは尊重すべきものだが、議論すべきものではない。だいたいこのへんが、これまでの良識ある知識人の態度ではないだろうか。

私もこれは決着のつけられる議論だとは思わない。しかし、もっとオープンに議論してよい問題だと思う。霊魂はあるかというような問題を、知識人が恥ずかしからずに議論できる社会的雰囲気を作ったほうがよいのではないだろうか。かつて心理学者の河合隼雄は、現代知識人は<性>より<聖>を恥ずかしがっていると語った(『中空構造日本の深創』)が、たしかにそういうところがありそうだ。

実際、オープンな議論へのニーズが高まっているように思う。孫引きで恐縮だが、島薗進は前掲書の中で、朝日新聞の死生観に焦点を当てた世論調査(2010年11月4日付)の結果を紹介している。その中で、日本人の多くが宗教には期待しないが霊魂の存在を信じるという反応を示していることに注目している。「宗教を信じることにより、死への恐怖がなくなったり、やわらいだりすると思う」と答えた人は26%、「思わない」は68%。ところが、「人間は死んだあとも、霊魂が残ると思う」と答えた人は46%、「思わない」の42%と拮抗している。

これはたいへん面白い結果だ。宗教への関心ではなく、霊魂への関心なのである。こういう関心の高い人向けには、かねてより「スピリチュアル」「神秘体験」というジャンルの議論や研究があった。しかしもう少し間口の広い議論もあってよいのではないか。46%という数字の高さはそんなことを感じさせる。

矢作直樹の『人は死なない―ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』(バジリコ)がベストセラーとして歓迎された背景には、死生観をめぐるオープンな議論へのニーズがあったのではないだろうか。この本は著者の誠実な人柄や真摯な姿勢が感じられて、普通に読んでも後味のよい本なのだが、やはり「東京大学教授、外科医」というわかりやすい看板の知識人が、霊魂の存在を堂々と議論してくれたということがベストセラーの原動力になっているに違いない。

『遠野物語』にすべての原型がある

矢作直樹の本に出ている体外離脱体験などの事例は、素朴で飾り気のない話だ。「そんな程度のことならあるかもしれない」と誰にでもふと思わせるものだ。たとえば、Cさんの事例。Cさんは若いころに自動車事故で体外離脱体験をした。同席していた妹は帰らぬ人となった。

「はっと気づくと、妹と並んで左後ろ十メートルくらい上から自分の車を見下ろしていました。車は、横に倒れた電柱に巻き付いて大破していて、その中は見えませでした。(中略)どれくらいの時間が経ったのか、短かったか長かったかわかりませんが、事故の現場をいっしょに上から眺めていた妹が、突然「お兄ちゃんは戻りなよ」と言いました。その瞬間、私は車の運転席に横たわった状態で目が覚めました。先ほど上から眺めていた通り左真横に電柱があり、妹は私の左肩に頭を乗せまさに息を引き取るところでした。」

どういう運命のいたずらか、Cさんはその後、やはり車の事故で長男を亡くされているが、この時も不思議な体験をしている。

「なお、後日談ですが、Cさんはこの事故から十二年後に十七歳の長男を自損事故で亡くされました。事故当日、警察の連絡を受けて出向き、自宅に長男の遺体を連れ帰って奥の間に安置しました。その晩深夜二時ごろCさんは、自分のいるリビングルームの入口に向かって外から足音が近づいてくるのを耳にしましたが、その足音は明らかに長男のそれでした。すると、開けたままの扉の外に長男が立っていたそうです。長男は、下肢までちゃんとありました。」

この余計な解釈や意味付けをしない簡潔な記述は、私には柳田国男の『遠野物語』を思いこさせた。『遠野物語』は柳田の民俗学の出発点になった作品(明治43年発表)で、岩手県の遠野地域に伝わる民話の聞き書きだ。内容的にもCさんの事例とよく似た事例が出てくるので紹介したい。

九七話には臨死体験の中で体外離脱する話が出てくる。Cさんの「お兄ちゃんは戻りなよ」に相当する「今きてはいけない」と言うセリフで本人は帰還するのだ。


「九七 飯豊の菊池松之丞という人傷寒を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上がり、およそ人の頭のほどのところを次第に前下りに行き、また力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず快し。寺の門に近づくに人群集せり。(中略)以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。(中略)心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り集い水など打ちそそぎて喚び生かしたるなり」。

二二話では、葬儀の日に足音がするのでふと見ると、棺に納めたはずの死者が立っているという体験が語られる。

「二二 佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。(中略)喪の間は火の気を絶やすことを忌むがところの家風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裏の両側に座り、母人は旁に炭籠を置き、おりおり炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、亡くなりし老女なり。(後略)」

ある女性の心身体験

これほどぴったりではないが、矢作直樹のあげるBさんの事例も、『遠野物語』に原型と思しき話がある。Bさんは「自分の心に他人が入ってくる」という状態に苦しんでいたが、あるとき、無意識のまま実家からもと住んでいたマンションへ行き、高層階から飛び降り自殺した。

「そうこうしていると、ある女性が「あなたの体を借りたい」と私の頭の中に話しかけてきました。(中略)そんなことが続き、自分が変だと気付いて何とか助けを求めたかったのですが、取り付いている「他人」に「あなたの夫に危害を加える。あなたをもっとひどい状態にする」と脅され、どうすることもできませんでした。そんな状況の中、私は当時住んでいたマンションから実家に移り住むことにしましたが、母が留守の間に私が意識のないまま、元住んでいたマンションの八階の自分の部屋にいました。そして、そこからまさに飛び降りたとき、地上の景色が目に入った瞬間に意識が甦りました。」

『遠野物語』一〇〇話には、自分の心に他人が入ってくるのではないが、自分の心が狐に入ってしまった女性の話が出てくる。

「一〇〇 船越の漁夫何某、ある日仲間の者とともに吉利吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思い定め、やにわに魚切包丁を持ちて差し通したれば、悲しき声を立てて死せり。(中略)おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰り遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。(中略)山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹の狐となりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身を雇うことありと見ゆ。」

また、『遠野物語』には、六、七、八話など、若い女性の神隠しの話が複数収録されているが、これは無意識のまま実家からいなくなってしまったというBさんの事例の後半部分を彷彿させる。

「七 上郷村の民家の娘、栗を拾いに山に入りたるまま帰り来たらず。家の者は死したるならんと思い、女のしたる枕を形式(かたしろ)として葬式を執行い、さて二、三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五葉山の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽いかかりて岩窟のようになれるところにて、図らずこの女に逢いたり(後略)」

今こそリアルな「常民」

『遠野物語』の世界には、神道の影響も仏教の影響も見られない。人々はごく自然に、動物、妖怪、死者などと隣り合って生きている。こんなふうに生きている日本人を柳田国男は「常民」と呼んだ。宗教心の薄い現代日本人が、科学では決着のつけようのない死生観に立ち向かうとき、いつの間にか常民に戻っているのかもしれない。

明治以降の近代化に熱心だった時代の日本人(特に知識人)にとっては、『遠野物語』は迷信の世界に見えたであろう。しかし、近代化の限界をいろいろなところに感じている今の日本人には、いちがいに迷信と片付けられない何かを感じることができるのではないだろうか。死生学が民俗学から得るものは多そうだ。
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