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消費者を卒業する

東京は、もしかすると、世界最高の消費都市なのかもしれない。最近注目されている「デザイン・シンキング」の元祖、IDEO社の日本法人代表のインタビューを読んでそう思った。
http://diamond.jp/articles/-/37122

IDEOはアメリカ中心に世界にオフィスがある。社員の中では、総じて東京は人気があるという。安全、正確な電車、物流、便利なコンビニ、健康的な和食。清潔なトイレ・バス。消費者との接点のすべ てが高度にデザインされた都市だというのだ。優秀な技術者とデザイナーも多い。

一方、平川克美さんの『「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ』を読み、まったく逆の方向の感銘を受けた。銭湯経済は、半径3kmで完結する世界。平川さんは、徐々に大田区の地元に軸足を移していったという。まず朝、友人と共同経営する喫茶店でコーヒーを飲み、仕事帰りに銭湯に寄って帰るという生活を始めた。できるだけ商店街で買い物。ユニクロでなく古着屋で買う。最近、秋葉原の事務所もたたんで地元の大田区に移転。これで銭湯経済のくらしに自信というか、最終的な実感を得たようだ。『小商いのすすめ』の続編のような感じの本である。

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中でも、仕事場を地元に移して大きく変わった(実感できた)と言っているのが興味深い。私は最近、「消費社会から地元社会へ」ということを考えていのだが、やはりポイントは職場かなと思い始めている。で、前回ブログで書いた地元社会への9カ条(寄り合い9カ条)の最初の2カ条を使って、「収入を得るうちの手段の一つが地元にあること」を最も重要な条件とした。

残念ながら私自身にまだ具体的な目途はない。ところが、一時的にではあれ、消費社会の申し子のようなわが娘がいちはやく生活の地元化を実現してしまった。娘は大学も勤め先も渋谷区だったが、学生時代から地元の中央線沿線某駅の予備校でバイトをしており、そのときの人間関係が今の友人関係のメインになっている。最近、勤め先をやめて、心理カウンセラーとして独立すべく勉強するかたわら、地元の会社に派遣で勤めはじめた。こうなると、住処も、友人関係も、職場も地元。基本は、ファッションとコスメと海外旅行の好きなイマドキの女子なのだが、職場を地元にしてから「お金使わなくなったなー」と言っている。通勤は、どうも人にお金を使わせる仕組みになっているらしい。

平川さんは次のように言う。ある程度まで豊かになった社会では、本当はもう消費を増やす必要はない。それでも増やそうとするときには、むりやり消費するというような消費が大半になってしまうのではなか。そのせいで、コミュニティが崩れたり、お金中心の薄っぺらい幸福観が蔓延したりする。そこでこの本のタイトルにもなっている「消費者をやめる」を提案する。行き過ぎた欲望を「断念」すべきだという言い方もしている。消費社会のあまりに便利で快適なサービスによって、「人間本来の生命力、生きる力を失う」とまで言っておられる。

「やめる」「断念する」は、大きな生き方の転換をすべきと主張するのための強い言い方であろう。消費社会のほうへ振れ過ぎた振り子を元に戻すための方便だ。ターンを鋭く意識するのによい。しかしちょっと頑張りすぎというか、逆の方向に振れ過ぎのように思う。平川さん自身、本音ではもうすこしバランス感覚で考えているようで、たとえば「コンビニと商店街の棲み分け」というような言い方をしているところもあった。

市場経済、交換経済や標準化・量産化の成果を全否定するのはばかげている。消費社会のサービスにはよい点もある。

本当は、私たちの欲望が自然に洗練されていくのがいちばんいい。物質的欲望に見えるものも、本来の目標は、自由や喜びが得ることであったはずだ。安全、便利、快適、清潔といったサービスも、同じだ。安全や快適は、社会システムとして大資本が整備すべき部分もあるが、ある程度までくれば、それ以上は地縁的なコミュニティの再構築によってしか成果は上がらない。

このように、消費社会はある程度までくれば、次のステップに行くのが自然だ。そのとき、過去がヒントになる。しかしヒントにすぎないことに注意が必要だ。トラックレースのようにターンしてもとに戻るのではなく、フィギュアスケートのようにターンして新しい次元へ飛ぶのだ。商店街だって相応に変わっていかなければ、新しい地縁社会の拠点にはなれまい。

私自身は、「消費者をやめる」ではなく「消費者を卒業する」と言いたい。「欲望を断念する」ではなく「欲望を洗練させる」と言いたいところだ。小中学校を卒業して、高等教育に進むように、消費者社会もどこかで卒業して、次の社会へ進む。初等教育はレベルが低いから「やめる」のではない。それは必要なステップだったし、そこで終えて悪いわけでもない。しかし、せっかくなら次の教程に進むともっとよい。順調に卒業したら、もっと高いレベルで学びたいと思うだろう。いつまでも初等教育にとどまっていては人間としての進歩も喜びもないから、次のステップへ行くということだ。

この比喩は、もうひとつの良い点があると思う。「やめる」「断念」してより高いレベルへ行くことができるのは、学校の比喩で言えば、「飛び級」ができてしまうような特別な存在だ。もちろん、消費社会から地元社会への転換には、先駆者が必要だ。しかしどんな人でも、あるところまで進めば次へ行けるというイメージには「卒業」のほうがいい。いまや高校進学率は90%以上、大学進学率も50%。そんなイメージだ。

ちなみに有名なマズローの欲求段階説には、「低次の欲望を卒業したら次の段階へ」というニュアンスがある。特別な人でもなくても、だんだん上がっていく。順調に卒業していけば、最後は、自己実現という倫理的・精神的なレベルまで到達する。特別な修行や禁欲をしなくても、欲望の学校を徐々に卒業していけば、いつしか、みんなあがるんだ、そんな楽観的シナリオを感じさせる。マズローのよいところだと思う。
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