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格差と個人主義の関係

先週、話題のトマ・ピケティ氏が来日した。『21世紀の資本』は日本でも13万部だそうだ。さすが「経済界のロックスター」、分厚い学術書がこんなに売れるのはすごい。

その昔の1980年代、浅田彰の哲学書『構造と力』が15万部を超えるベストセラーになったことがある。両方とも天才肌の学者の鮮烈なデ ビューという構図はよく似ている。浅田彰は「新人類の騎手」と言われたものだ。ピケティは世界に影響を与えている経済学者だから、比べては失礼かもしれないけれども。

ともあれ、来日騒ぎがきっかけで、私もこの分厚い本を読んでみる気になった。実は昨年末に買って以来「積読(つんどく)」状態であった。正月休みに読むぞとついアマゾンの注文ボタンを押してしまった人は多いのではないだろうか。

実際に読んでみて、この本には、経済学だけでなく歴史学や社会学の面白さもあることがわかった。ヨーロッパはいかにして農村中心の伝統社会から都市中心の近代社会へと変わっていったか。この転換は教科書で教わるほど単純なものではなかったようだ。19世紀のヨーロッパは格差の非常に大きい社会だった。

ピケティはバルザック、オースティンの小説に描かれた社会風俗に注目する。とくにバルザックの小説『ゴリオ爺さん』の中の一エピソードは何回か出てくる。『ゴリオ爺さん』の舞台は、パリの下宿屋「ヴォケール館」だ。当時のパリには、いろいろな地方から、いいろいろな年齢、職業の人間が集まっている。立身出世や一攫千金を夢見て、田舎から首都に集まってくるのである。

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下宿人の一人、野心に燃える青年ラスティニヤックは法律を勉強している。同時に、上流社会にコネを作ろうと必死だ。そんなラスティニヤックに対して、やはり下宿人の一人であるあやしい紳士(実は大泥棒)ヴォートランが説教をする。法 律を勉強して偉くなっても、その収入はたかが知れている。財産をもった令嬢と結婚すべきだ。容貌や気立てではない、財産が問題だ、と。

このエピソードは、「所得格差より資産(資本)格差が問題だ」「資本の収益率は経済成長率より高い」というピケティの主張とぴったり重なり合うため、お気に入りのエピソードらしい。何かのインタビューで「私は小説に書かれていることの意味を知ろうとして研究した」とも語っている。

バルザックを始めとする19世紀ヨーロッパの小説は日本にもファンが多い。私も若い頃によく読んだ。少なくとも私の世代では、それは珍しいことではなかったと思う。フランスで言えばバルザック、スタンダール、ユゴー、イギリスではオースティン、ディケンズ、ブロンテ姉妹などの小説を熱心に読んだものだ。

今考えると、これらの小説を面白いと感じた理由は二つある。一つは、日本の現代社会に生きる自分にもリアルに感じられる普遍的な面白さ。もう一つは、その全くの逆に、身近でないゆえに感じられる面白さだ。それが上流社会の風俗や莫大な財産をめぐる葛藤である。

過去の外国の話しだから、財産や収入の水準は実はよくわからないで読んでいることが多い。「2万ポンドの遺産を私が一人占めするなんていけません。5千ポンドもあれば十分ですわ」などというセリフが出てきても、どれほどすごい財産なのか、どれほど謙虚な態度なのかわからない。

実はこの状況設定は、19世紀のイギリスの女流作家シャーロッテ・ブロンテの小説『ジェイン・エア』に基づいている。家庭教師として住み込みで働くジェインはいつしか主人ロチェスター様と恋に落ちるが、彼女には身分違いという劣等感があり、二人は分かれてしまう。

わかりにくいのは値段の水準だけではない。最後の感動的なラストシーンで、ジェインはロチェスター様と再会する。そして「私は今では自立した女です」と胸をはる。どういう意味かね?と問われたジェインは、叔父から5千ポンドの財産を相続したことを申し立て、ロチェスター様も、ああそうだったんだねと納得するのである。え?そこで納得する??

「自立する」ことと「財産を得る」ことがなぜイコールなのか。ピケティは、やはりイギリスの女流作家オースティンの小説に言及して、登場人物たちは決して働かないと指摘している。「自立した人」とは何か手に職を持っていることを意味しそうなものなのだが、どうやら財産を持っている人を意味したらしいのである。

財産は、19世紀のヨーロッパ小説ではしばしば物語の重要な背景になる。イギリスで発達したミステリでは、財産は、重要な背景どころか、根幹をなしていることが多い。財産をねらった結婚、遺産相続をめぐる争い、突然遠くの叔父から転がりこんできた遺産、妻の財産をねらう夫・・・。コナン・ドイルからアガサ・クリスティまで、こうしたトラブルを軸としたミステリの何と多いことか。

相続の制度は、フランス革命以来、長子相続から兄弟姉妹の均等相続へと変化していった。にもかかわらず、資産格差は縮まらなかったとピケティは言う。

ピケティが見逃している問題がある。長子相続か均等相続かだけでなく、財産の個人主義か共有主義かという違いがある。財産は個人のもので、個人が自由に処分することができる。夫と妻はそれぞれ自分個人の財産を持っているし、個人の財産を遠い親戚の誰にポンと譲ろうが、それは個人の勝手だ。こうした「財産の個人主義」は、中世の時代から続くヨーロッパならではのものだと思う。

一方、日本では「財産の共有主義」「労働の共同主義」の伝統が強かった。「家督を継ぐ」「家産を守る」という発想は近代化以降にも残って、会社共同体や終身雇用制など独特の仕組みを生み出した。

財産というものに対する執着心の強さでも、日本と西洋には違いがある。ロンドンに留学した漱石は「西欧人はしつこいのである」という感想を日記に書いた。

江戸の初期に井原西鶴が『日本永代蔵』という財産をテーマにした短編小説集を書いた。西鶴のスタンスは「あの世には持っていけないが、この世は金次第だ」というもの。

しかし実際には、財産がはかなく消えやすい存在であることを教える教訓のような話が多い。せっかく財産を築いたのに何かの心の緩みでスッテンテンになってしまったとか、出来の悪い二代目、三代目でスッカラカンになってしまったという話が非常に多い。根底にあるのは、諸行無常だ。

バルザックは面白い。しかし西鶴のほうがすがすがしい。

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